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Channel: スポーツ – Smart FLASH/スマフラ[光文社週刊誌]
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元・広島「長谷川昌幸」いまはスポーツ用品店に勤務

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 2018年も逸材揃いだったプロ野球ドラフト会議。東大合格より難しいといわれる世界に飛び込んだ、かつての選ばれしエリートである元・広島の「ドラ1」長谷川昌幸(41)を訪ねた。

 

「じつは、広島のスカウトと話した記憶がないんです。ダイエーからは『うちに行きたいと言ってくれ』と言われたこともありました。もちろん、そんなことは言えませんでしたが(笑)」

 

 

 入団当初、先輩選手から厳しい言葉も投げかけられたという。

 

「『お前で1位か』『調子に乗るなよ』みたいなことを言われたこともありましたね」

 

 一方で、登板のチャンスは同期より多かったことも。

 

「球団としても目をかけてくれてたんだなと思いますね。ほかの選手なら1回で見てくれなくなるのが、辛抱強く見てもらったことはありましたからね」

 

 プロでの思い出は尽きない。

 

「桑田(真澄)さんと同じマウンドに立てた試合、池山(隆寛)さんの現役最終打席に投げられた試合が印象に残ってます。野球少年のような気持ちでしたね」

 

 現在はスポーツ用品店に勤務している。

 

「週5日出勤し、お客さんにアドバイスなどをしています」

 

はせがわまさゆき
1977年7月16日生まれ 茨城県出身 広島、オリックスで活躍。6年めには、チームトップの13勝。プロ15年間の通算成績は209試合42勝61敗、防御率4.44

 

(週刊FLASH 2018年11月6日号)


甲斐キャノンを育成「肝っ玉母ちゃん」との愛情LINE

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左から甲斐、母・小百合さん、兄・大樹さん

 

 日本一の強肩を武器に、日本代表でも正捕手の座を掴んだソフトバンクの甲斐拓也(26)。日本シリーズでは、新記録となる6連続盗塁阻止を達成し、育成ドラフト出身選手として初のMVPを受賞した。

 

「甲斐キャノン」の異名は、メジャー軍団にも轟き、世界屈指の名捕手、Y・モリーナ(カージナルス・36)にも「会いたい」と言わしめたほどだ。

 

 

「今回の侍ジャパンに選ばれ、拓也は『お母ちゃん、モリーナ選手が見れる。それだけでも俺、収穫や!』って、子供のように喜んでいました」(母・小百合さん)

 

 そんな甲斐が野球を始めたのは保育園時代、まだ5歳だった。小百合さんが述懐する。

 

「兄の影響で始めました。私はタクシーの運転手をしていて、仕事中に迎えに行っていました。昼寝している拓也を起こしてもらって、後部座席でユニホームに着替えさせてグラウンドに送っていく日々。

 

 練習は週5日とハードでしたが、雨が降って休みになると、悔しそうにしてましたね。本人は始めたころから、『キャッチャーをやりたい!』とばかり言っていました。たぶん、プロテクターをつけたかったんでしょうね」

 

 スタートが早かっただけに、頭角を現わすのも早かった。

 

「小2で、6年生の試合に出ても遜色ありませんでした。体調が悪くて学校を休んでも、練習には来るんです。さすがにそれはまずいから止めました(笑)」(光新少年野球部の元監督・渡辺朋也さん)

 

 中学では、硬式の大分リトルシニアに入団。当時監督を務めていた木本繁隆専務理事が振り返る。

 

「捕手をやることもありましたが、セカンドが主。腰が弱く、痛めることもあったから。

 

 でも、セカンドの守備は、九州でいちばんうまかったですよ。守備範囲が広くて肩が強いからアウトにできる。打って助けられたというのは、あまり記憶がないですが(笑)」

 

 甲斐家は拓也が2歳のときに両親が離婚。小百合さんが女手ひとつで育てた。時間の融通がきくこと、すぐに動けるようにと、タクシードライバーとなった。さらに、夜にはパチンコ店の清掃などもおこなっていた。すべては、息子2人のために。

 

「仕事を掛け持ちするようになったのは、拓也が高校受験のときで、兄の大学進学と重なったから。いちばん大変でした。拓也はそれを知っていたので、今でも『お母ちゃん、お母ちゃん』と言ってくれるんだと思います」

 

 母の大変さを知っていただけに、大分・楊志館高校では、より野球に没頭した。

 

「高3になると『僕はプロに行きたい』と、口にするようになりました。そのためには、本塁打を打って目立たなければと、3年時は20本くらい打ちました。

 

 西武の山川(穂高)選手のように、もう狙い打ちでしたね(笑)。熊本の文徳高校との試合では、1試合で6つの補殺を記録したこともありました」(楊志館高校の萩原田久生監督)

 

 甲子園出場はかなわなかったが、ソフトバンクから育成6位の指名を受けて、2011年に入団する。だが、そこからが本当の苦難の道のりだった。

 

 幾度となくプロの高い壁に阻まれ、三軍と二軍を行き来する日々で、なかなか支配下選手になれなかった。一軍昇格は、2014年のことだった。

 

「2016年ぐらいまで、毎日のように電話をかけてきて、『なんかヘマこいたん?』って聞くと、『そうや』って。私はひたすら聞き役に回ってましたね。

 

(契約更改が近づく)10月になると、『母ちゃん、イヤな季節がやってきたよ』とこぼしてましたが、2017年あたりから、『人事を尽くして天命を待つやわ』と話す内容も変わるようになり、『もう大丈夫やろ』と思えるようになりました」(小百合さん)

 

 そんな息子が、いまや日本球界を代表する捕手に成長した。日本一を成し遂げた夜、小百合さんの携帯には、成長した息子からLINEが届いていた。

 

「お母ちゃん、ありがとう!」

(週刊FLASH 2018年11月27日号)

引退「川口能活」両親が本誌に語っていたサッカー少年時代

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 11月14日、J3のSC相模原に所属している元日本代表GKの川口能活が、引退会見を開いた。

 

「選手としてではなくて、違った形で貢献したいという思いが強くなった」

 

 

 ここ数年、引退するかしないかで揺れ、2018年のロシアワーツドカップ日本代表の戦いを見て、引退を決意したという。

 

 会見冒頭、川口は「サッカー選手として必要な丈夫な体を授けてくれた両親。サッカーに出会わせてくれた兄」への感謝を述べた。本誌はかつて、その両親に取材している。

 

 川口がサッカーに目覚めたのは小3のときだった。小4で初めて試合を無断欠場し、監督から「明日から来るな」と叱責されたのが、最初の挫折だった。

 

「能活は1週間、校庭の片隅に隠れて、泣きながら練習を見てました」と母のひろ子さん。
 GK専念を決意した小5の夏、川口は念願のグラブを手に入れる。当時1万2000円もしたのだが、父のボーナスが出るのを待って、親子3人で買いに行ったという。

 

「能活が小学5年のときに、家が火事で全焼したんです。そのときはさすがに私たちも頭が真っ白になってしまったんですが、自分が泣いたらもっと心配かけると思ったんでしょうね。下の公園で一人で大泣きしてたって、近所の人に教えてもらって切なくなりました」(ひろ子さん)

 

 昔からけっして親の前では涙を見せない子供だったという。
 父の政昭さんはこう話していた。

 

「当時、やっと買ったビデオで『負け試合を見ろ』って言ったんですよ。ビデオで見れば点を入れられる前の動きもわかるでしょ。でも悔しいんでしょう、絶対見るもんかって(笑)。

 

 でもしばらくしてから、真剣に見てました。ただ、負けていちばん悔しいのは本人ですから、私たちは何も言いませんでしたよ。勝ったときは『ナイスセーブだったな』なんて話しましたけど」

 

 川口が静岡の名門・東海大一中に進学したいと言ったとき、家族会議が開かれた。そのとき兄が、「能活が本気でサッカーをやりたいんだったら、やらしてやろうよ。ボクは公立高校へ行くから」と言った。この兄の一言で、川口の進路が決まった。

 

 川口が清水商に進学してからは寮生活になり、別々の生活になったが、両親は陰ながら支えてくれた。

 

「私はパートの前に車で清水まで行って、能活の布団を干すんです。それでパートが終わったらまた行って、布団を取り込んでシーツも取り替えてあげる。そうすると何も言わなくても『今日は来てくれた』ってわかるみたいで(笑)。
 あとは食事が心配で、冷蔵庫にヨーグルトなんかを入れてきました」(ひろ子さん)

 

 運転手の仕事をしていた政昭さんも、中学のときから遠征に行くときはバスの運転を買って出たという。

 

 1996年、アトランタ五輪でブラジルに勝利した「マイアミの奇跡」では、28本のシュートを打たれるも失点0に抑えた川口。
 2004年のアジアカップ・ヨルダン戦のPKでは、入れられたら敗退が決まる絶対絶命な状況で、シュートを2回止めるなど、神がかった活躍もした。

 

 日本代表として国際Aマッチ出場数116試合は、歴代3位。ワールドカップ4大会連続で選出されるなど、日本を代表する守護神となった川口。その活躍を支えたのは、一番のサポーターだった家族だったのだ。

楽天入り「由規」プロを目指すきっかけは中1の米国投球体験

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ドラフト会見(2007年)

 

 11月16日、楽天イーグルスが元ヤクルト・スワローズの由規(佐藤由規)投手と育成契約を結んだことを発表。背番号は「123」となった。

 

 甲子園で155キロを記録するなど、鳴り物入りでヤクルトに入団。1年目から一軍で投げ、2年目からは先発ローテーションに入るなど、将来を期待された。

 

 

 2010年当時、日本人最速161キロをマークするが、2011年に右肩の張りで離脱し、腱板を傷めていることが判明。2013年に手術を行った。懸命のリハビリを経て、2016年には1786日振りに1軍で勝利をあげる。

 

 ついに復活かと思いきや、そこからまた右肩の調子が悪くなり、リハビリと復活の繰り返し。ついに2018年10月、ヤクルトから戦力外通告された。

 

 落とされては這い上がり、また落とされるを繰り返した由規は、地元・仙台のヒーロー。そんな由規の幼少時代を、かつて本誌は両親に取材していた。

 

 母・美也さんが肺炎にかかり、強い薬を飲んだときに妊娠が発覚。出産が危ぶまれたが、無事、この世に生を受ける。
 由規は小4で野球を始めるも、当初は野球嫌いだったという。

 

「親に反抗したこともなく、上の子がやっていたので、当然野球をやると思っていたら、そのときだけ『なんでやんなきゃいけないの。イヤだイヤだ』と最初は泣きながらやっていました。小学生のころは運動会のリレーの選手に選ばれたこともないし、体つきもコロコロして運動神経がよくもなかったですね」(美也さん)

 

 中1のとき、リトルリーグで優勝し、アメリカの世界大会へ。ノーヒットノーランを達成し、準優勝に貢献するなど才能が開花した。父・均さんがこう明かす。

 

「アメリカで4万人以上の観客のなかで投げたのが大きな経験になったと思う。このとき将来プロという気持ちが出たのかもしれないね」

 

 だが、由規は中学生の頃から成長痛に悩まされ、両親のサポートのもと、地元の接骨院や体操の指導者から、筋肉や関節、体のバランスなどのアドバイスを受け、肉体改善していった。

 

「昔から鈍くさいから、治療も練習も本人が地道にコツコツやってきたんです」(父・均さん)

 

 そのかいあって、高1の秋には140キロ台後半をマーク。2年夏の県予選決勝。0対0の延長15回と翌日の再試合を1人で投げ勝ち、初の甲子園を決めた。
 そのときの様子を美也さんが振り返る。

 

「人前では絶対見せないんですが、家では泣くこともあったんです。高2の春に背番号1をもらったときに、上級生を差しおいていいのかという重圧からか泣き出したり……。主人が『そんなに自信ないなら明日、背番号を返してこい』と怒ったこともありました」

 

 2015年2月17日付のサンケイスポーツで、由規はインタビューにこう答えている。

 

「(仙台育英)高校時代の部訓だった『本気になれば世界が変わる』と『死ぬ気でやれよ。死なないから』というのが好きな言葉。周りは無理をするなと言うけど、限界まで追い込みたい」

 

 どんな状況でも諦めなかったのは、高校時代に培われた精神力、そしていつもそばで支えてくれた両親のおかげだった。

 

 仙台で再起をかける由規は、故郷に錦を飾れるのか、注目である。

元ノア王者「森嶋猛」泥酔乱痴気のごっちゃん体質

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 11月4日、タクシー料金1万8000円の支払いを拒否して、運転手の顔面を殴打し、現行犯逮捕された元プロレスラーの森嶋猛容疑者(40)。

 

 現役時代はノアに所属。190センチの恵まれた体軀を生かして、GHCヘビー級王者に輝いたこともある巨漢だ。冒頭のコメントを寄せた、森嶋容疑者をよく知るA氏が語った。

 

 

「暴行はともかく、タクシーの金銭トラブルはいつかあるだろうなと思ってました。彼は、以前からタクシーで試合会場まで乗りつけては、選手の誰かに金を借りて料金を払うとか、平気でやっていた。

 

 この日も、タクシー代を借りる相手を探して都内をまわるうちに、料金がかさんで焦っていたんでしょう。私が肩代わりしたときは、『銀行が閉まってるんですけど、タクシーで行っていいですか?』と言うので、電車で来いと伝えると、『足が痛くて』と。

 

 ノアのころは、いつも誰かが払ってくれて、その『ごっちゃん体質』が抜けなかったんでしょう。最近は、若手選手に500円ずつ借りたりしていたから、注意したこともあるんですが……」

 

 2015年4月に糖尿病を理由に引退を表明した森嶋容疑者は、2018年7月に突如復帰を宣言。10月15日に、後楽園ホールでの復帰戦が決まっていたが、9月の練習中に化膿性関節炎を発症し、断念。大会は中止となったが、本人は復帰への意欲を示していた。

 

 そんな最中の事件だった。報道では「住所不定」とされた森嶋容疑者は、いったいどんな生活を送っていたのか。

 

 A氏によれば、復帰が決まるまでは岐阜に住んでいた。復帰が決まり上京、復帰大会を主催する予定だったエス・ピー広告社が、当面の生活の面倒を見ていたという。

 

「引退後の森嶋はいろいろな仕事をしていました。エス・ピー社の社長は、彼のためにアパートを借りて面倒を見ていた。

 

 それなのに、酒を飲んではちゃらんぽらんに暮らす森嶋に、社長の堪忍袋の緒が切れた。電話で『もう出て行け!』と告げた社長に、なんと森嶋は『いま新宿で飲んでるから、鍵を取りに来い!』と逆ギレしたそうです」

 

 それ以降、知人の家などを転々としながら生活するようになった森嶋容疑者。日ごろから頻繁に歌舞伎町やゴールデン街で飲み歩く姿が目撃されている。

 

 そもそも収入もないのに、なぜ毎日のように酒を飲めたのか? 歌舞伎町の飲食店経営者が語る。

 

「うちにも何度か来ましたけど、本人はカネがないから、いつも一杯か二杯しか飲まないんです。

 

 そのくせ、自分は今でもスターだと思ってるから、居合わせたファンや客に、『一緒に飲みましょう。一杯いただいていいですか?』と酒をせびっていた。そんなことを繰り返し、出禁になった店が複数ありました」

 

 また、岐阜から上京後の森嶋容疑者は、酔っ払って携帯電話を三度も紛失。新規の契約ができなくなり、犯行時にも持ってなかったという。

 

 復帰を目指していた元王者にかけられたのは、チャンピオンベルトならぬ、まさかの手錠だった。

 

(週刊FLASH 2018年11月27日号)

元・阪神の野田浩司、野球解説もしつつ本職は肉料理店経営

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 2018年も逸材揃いだったプロ野球ドラフト会議。東大合格より難しいといわれる世界に飛び込んだ、かつての選ばれしエリートである元阪神の「ドラ1」野田浩司(50)を訪ねた。

 

 多良木高から社会人野球に進んだが、2年めに廃部。高卒の場合、3年間プレーしないとプロに行けないというルールがあった。

 

 

「ドラフト1カ月前に、特例ルールでOKが出たんです。挨拶には10球団ぐらい来たかな」

 

 当時は裏金問題が噴出する前で、比較的寛容な時代だった。

 

「スカウトの方によく食事に連れていってもらいました(笑)。会うたびに3位、2位、1位と、評価が上がっていった感じで」

 

 阪神の村山実新監督のもと、新戦力として期待された。

 

「1位のプレッシャーというよりも、ファンやマスコミの注目がすごすぎて、わけがわからないような状況でしたね」

 

 現在は、肉料理店を経営。

 

「アマ野球の指導、野球解説の仕事をしながらなので、店には週2日ぐらい出てます」

 

のだこうじ
1968年2月9日生まれ 熊本県出身 阪神、オリックスで活躍。1993年17勝で最多勝。1995年ロッテ戦で19奪三振の日本記録。プロ12年間の通算成績は316試合89勝87敗9S、 防御率3.50

 

(週刊FLASH 2018年11月6日号)

那須川天心と9分の試合決定「メイウェザー」私生活の悪行ぶり

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「フロイド・メイウェザー選手とのミスアンダースタンディング(誤解)は解決しました」

 

 11月16日、RIZINの榊原信行実行委員長がツイッターで、大晦日に開催する総合格闘技イベント「RIZIN.14」で、那須川天心とメイウェザーの試合を予定通り行うと発表した。

 

 

 ボクシングの5階級制覇王者メイウェザーは、同日、アメリカのメディアTMZの直撃インタビューに「史上最高の金を払うエキシビジョンになる」と回答。ルールは3分3ラウンドでキックはなしと明言した。

 

 本誌でも報じたとおり、メイウェザーはカネへの執着心が強い。だが、それに輪をかけて、私生活での悪行も有名なのだ。

 

 特に女性に手をあげる癖があるとされ、2003年にはナイトクラブで女性2人を殴ったとして有罪になった。2012年には、ガールフレンドに対する暴行、脅迫などで2カ月間収監されている。このほか、有罪にならないまでも、何度となく起訴されているのだ。

 

 メイウェザーの幼少時代は、「マネー」とは程遠かった。
 家族7人で1つのベットルームで過ごし、父と母はドラッグ中毒者。しかも、メイウェザーは父から日常的に殴られていた。 父はドラッグの売人をしており、1993年にはコカインの密売で5年間収監されている。

 

 実は、父親は元ボクサーで、ボクシング界では名トレーナーとして知られていた。

 

 史上初の6階級制覇を成し遂げたオスカー・デ・ラ・ホーヤやモハメド・アリの娘レイラ・アリのトレーナーにつくなど活躍していたが、関係の冷え切ったメイウェザーのセコンドには長年つくことはなかった。

 

 キックボクサーである那須川にとって「キックなし」のルールは大きく不利になる。一方、デフェンシブな戦い方が特徴のメイウェザーには、なんの怖さもない試合だ。

 

 大晦日の注目の9分間は、メイウェザーにとって「小遣い稼ぎ」に等しい行為となるが、それでも盛り上がるのは間違いないだろう。

元巨人「河野博文」いまは農家で長嶋茂雄に玉ねぎ送ってる

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 2018年も逸材揃いだったプロ野球ドラフト会議。東大合格より難しいといわれる世界に飛び込んだ、かつての選ばれしエリートである元・日ハムの「ドラ1」河野博文(56)を訪ねた。

 

 引退後はまったく畑違いの農業に転職し、6年がたつ。甘みが強く、自身の愛称を入れた「げんちゃん玉ねぎ」は好評を博し、今では年間200トンを栽培する。

 

 

「ドラ1の肩書きが、今の事業に役立っていることはないすね。やっぱり日ハムなんで(笑)。それよりも、元巨人の肩書のほうが役立っていますよ。

 

 知らない人からも『げんちゃん』って呼ばれますから。その名づけ親の長嶋茂雄さんには、今も玉ねぎを送っていますよ」

 

 今後は拠点を高崎から東京に移し、玉ねぎを使ったレトルトの「げんちゃんカレー」を2018年中に販売予定。

 

「すでに15万食以上のオファーも来ています」

 

こうのひろふみ
1962年4月28日生まれ 高知県出身 1988年、最優秀防御率、1996年最優秀中継ぎ投手。1995年、FAで巨人移籍。プロ16年間の通算成績は54勝72敗15S、防御率3.93

 

(週刊FLASH 2018年11月6日号)


ミスターラグビー松尾雄治、今も思い出す高校の理不尽指導

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「悪質タックル」「奈良判定」が流行語大賞にノミネートされるなど、体育会パワハラが世間を賑わせた2018年。しかし、ひと昔前には、体育会は「理不尽」が日常だった。

 

 今と昔は何が違うのか。理不尽な体育会出身の「元祖ミスター・ラグビー」松尾雄治氏(64歳)を訪ねた。

 

 

「高校時代は毎日、先生の家に泊まって、朝5時半に多摩川の河川敷で練習開始。学校まで10キロ走って朝礼だけ参加して、また10キロ走って、明大のグラウンドで練習。

 

 高1のときは花園(全国高校ラグビー)で優勝したあと、夜行バスで帰京して、翌朝5時半から練習です。優勝なんて関係ない。とにかく我々に考える時間を与えてくれない。一日が終われば『よかった。今日も生きている』とホッとする日々でした」

 

 1978年度から1984年度にかけ、新日鐵釜石で日本選手権7連覇。日本ラグビー界を牽引した松尾氏が思い出すのは、目黒高校(現・目黒学院)時代の故・梅木恒明監督だ。

 

「ラグビーで、半端者を世の中で生きていけるようにする。『戸塚ヨットスクールは甘い』という先生で、入部時に誓約書を書かされる。そんな先生に、親父が一目惚れしちゃってね。

 

『先生にすべてまかせます。もう殺してもいいです』とハンコを押しまくった(笑)。でもね、教育というのは、預ける親と先生がちゃんと会話していればいいんです。我々の時代はそれができた」

 

 卒業後は明治大学に進学。ラグビー部の名物監督、故・北島忠治氏から指導を受けた。

 

「北島先生は本当の教育者です。『正々堂々』が先生の教え。相手チームに退場者が出たら『こちらも一人減らし、14対14で戦わせてほしい』と審判に頼んだことまであった」

 

 4年生のとき、日本選手権で初優勝。北島監督も涙を流して喜んでくれた。

 

「私が成城大ラグビー部の監督を務めた7年間は“北島流” でやりましたよ。“梅木流”だと、みんなやめちゃう(笑)。

 

 北島先生がおっしゃったように、私も学生を『4年間、練習を休まなかった奴は、これからの人生にすごいものが待ってるぞ』と送り出した。いまでもそう思っています」

 

(週刊FLASH 2018年11月13日号)

稀勢の里、元「貴乃花」親方の一言で心がぽっきり折れた

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貴景勝との取組(写真・JMPA)

 

 初日から4連敗となった翌日の11月5日、休場した稀勢の里(32)。だが本人は、出続けることを最後まで田子ノ浦親方(42)に懇願していたという。

 

「勝ち越しか負け越しかが決まるまでは出たい。せめて中日まで出させてください」

 

 

 稀勢の里担当の相撲記者が語る。

 

「それに対して親方は、『今場所負け越したら引退に繫がる恐れがある。進退を懸けるのであれば、初場所で自分の相撲を取りきってから決めればいい』と必死に説得したそうです」

 

 じつは今場所、稀勢の里は「自信を持って迎えていた」と、支援者の一人は語る。

 

「先場所、3敗めを喫したときに気持ちが切れて荒れたことがあった。それでも出続けたのは、弟弟子の高安が優勝争いをしていて、援護射撃にまわることに決めたから。

 

 そして15日間取りきって、10勝できた。今場所前の稽古では調子がよかったので、本人の表情は明るかった」

 

 ところが、「初日、貴景勝との一番で負った怪我が痛かった」と、支援者は続ける。

 

「自信を持っていただけに、思わぬ右膝の怪我にはショックを受けたと思う。稀勢の里は気持ちが乗っていれば、10の力を、12、13と出せる。

 

 ところが乗っていないと4から5しか出せなくなる。初日の怪我が悪い方向に出てしまい、その時点で気持ちが切れてしまった。

 

 本来なら、翌日から休場しなければならないほどの重症だったが、それでも出続けたのは、一人横綱としての責任感だったのだろう」

 

 責任感ゆえの強行出場は、最悪の結果に。そんな稀勢の里の心の拠りどころは、元貴乃花親方だったという。

 

「2人は似た相撲人生を送ってきました。元貴乃花親方は史上最年少の17歳8カ月、稀勢の里は、2位の18歳3カ月で新入幕。ともに群れることを嫌い、横綱まで上りつめた。なによりも、自分と同じ『ガチンコ相撲』を評価していました」(担当記者)

 

 ある相撲ライターも、2人のエピソードを明かす。

 

「元貴乃花親方が巡業部長時代のことだが、『稀勢の里のような才能に恵まれている力士が、なぜ横綱になれないんだ』と、よく嘆いていた。

 

 その後、四股の踏み方を含めた基本動作を、徹底的に見直すアドバイスを送っていた。稀勢の里の欠点は、腰が浮いて下半身が突っ立ってしまうこと。それさえ直せば、横綱になれると思っていたゆえのアドバイスだったのだろう」

 

 その甲斐あって横綱になったものの、その後は休場続き。その際も元貴乃花親方は折にふれて、「休場中も焦るな」と電話でアドバイスを送っていたという。

 

 そんな “師弟関係” に亀裂が入ったのが、今場所初日の、稀勢の里が怪我を負った取組。相手は、元貴乃花部屋の愛弟子だった、貴景勝だ。親方の一人が語った。

 

「元貴乃花親方は、本調子でなくても、稀勢の里の正攻法の取組を評価していた。ところが貴景勝との立合いで、あろうことか張り差しを食らわした。これは白鵬の得意技で、横綱としては禁じ手といわれ、元貴乃花親方がもっとも嫌うこと。

 

 これをテレビで観戦していた元貴乃花親方は失望した。ある親方に、『稀勢の里があれをやるようになったらもう無理だよ』と伝えた。

 

 その言葉が数日後、本人の耳にも届いた。尊敬していた “師匠” の苦言に、心がぽっきり折れてしまったようだ」

 

 本誌は稀勢の里が休場を決めた11月15日、福岡県田川市にいた元貴乃花親方に、初日の稀勢の里の取組について訊ねた。しかし、「わかんない。ごめん、勘弁して」と言うのみだった。

 

 もはや全盛期の力はない。心の師匠からダメ出しされた稀勢の里は、進退を問われる初場所で、「ガチンコ相撲」を貫けるか。

 

(週刊FLASH 2018年12月4日号)

元阪神・広澤克実、大学野球で敗けたら「切腹しろ」の不条理

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「悪質タックル」「奈良判定」が流行語大賞にノミネートされるなど、体育会パワハラが世間を賑わせた2018年。しかし、ひと昔前には、体育会は「理不尽」が日常だった。

 

 今と昔は何が違うのか。理不尽な体育会野球部出身の広澤克実氏(56)を訪ねた。

 

 

 ヤクルト、巨人、阪神で活躍した広澤克実氏(56)は、明治大野球部の故・島岡吉郎監督の元で、明大時代の4年間で3度優勝した。

 

「いまも島岡監督の写真を見ると、背筋がピンとなります」

 

 入部してすぐ、1年生での春のリーグ戦、法政大学との1回戦で負けた夜。メンバー30人が合宿所に集められた。

 

「島岡監督をみんな『御大』と呼ぶんです。いきなり御大が、小刀を畳に突き刺し『これで全員、切腹しろ』ですよ。主将の平田勝男さん(来季から阪神二軍監督)が『御大、明日は絶対に勝ちますから、命だけは』とお願いして。

 

 翌日、本当に勝って、そのときは日本一まで行きました。でも、この先どうなるんだと不安になりました(笑)」

 

「御大」がとくに怖かったのが、早慶に負けたときだ。

 

「夜の3時に起こされて、そこから練習。だから下級生は、早慶に負けた夜はユニホームで寝ていました。

 

 僕は御大から褒められたことは一度だけ。3年生の春、慶應戦の延長で決勝タイムリーを打ったときです。法政戦で3試合連続ホームランを打って優勝しても、ひとつも褒められなかったのに」

 

 広澤氏は3年生のときには、プロ注目の選手となっていた。御大が言うのはいつも同じことだった。

 

「『ここはプロの養成所じゃない。立派な社会人を育て、世に出す場なんだ』と。御大にはプロに行く選手のことより、ユニホームを着られない選手の就職が先だった。各企業の人事部長を訪ねて『この島岡が育てた人間です』と口説くというんです。

 

 いまでも毎年、お墓参りは欠かしません。感謝しかないんです。あの4年間がないといまの自分はないと思う。でも絶対に明大時代には戻りたくない(笑)」

 

(週刊FLASH 2018年11月13日号)

体育会ゴルフ部出身の「中村扇雀」合宿でタワシ紛失し坊主に

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「悪質タックル」「奈良判定」が流行語大賞にノミネートされるなど、体育会パワハラが世間を賑わせた2018年。しかし、ひと昔前には、体育会は「理不尽」が日常だった。

 

 今と昔は何が違うのか。理不尽な体育会出身の歌舞伎俳優・中村扇雀(57)を訪ねた。

 

 

 学生ゴルフ発祥の地といわれる慶應義塾大学。中村氏は、その体育会ゴルフ部で壮絶な体験をした。

 

「幼稚舎から慶應に通ったんですが、神宮球場の慶早戦で、体育会系の学生の学ラン姿に憧れたんです。大学に進学したとき『きつくて部をやめたら大学もやめて、歌舞伎に専念する』と、反対する父を説得して入部しました」

 

 ゴルフ部は、想像以上に厳しかった。最初の新入生トレーニングで、入部希望の30人のうち半分以上が脱落した。

 

「2時間走って筋トレ、また走るという、イジメみたいなもの。僕は、食事量を倍にして、毎日、水を2リットルから3リットル飲んでたけど、体重が10キロ減った。

 

 夏には新入生合宿があって、先輩のゴルフバッグと自分のと、2つかついでコースをまわる。先輩が打つと走ってボールを確認に行って、走って戻って自分が打つ。クラブを洗うタワシがなくなり、1年生は全員丸坊主にされました。

 

 1週間乗り切ると、晴れて部員になれるんだけど、なんの前ぶれもなく、いなくなった奴がいた。栃木の山奥から、荷物を置きっぱなしで夜逃げしていたんです」

 

 大学で始めたゴルフは、半年でハーフ39、1年で35まで向上。3年生でレギュラーになった。

 

「卒業して歌舞伎の世界に入ったけど、その年齢まで稽古していない歌舞伎役者なんていなかった。

 

 追いつくため、一晩じゅう三味線の稽古をして、気づいたら朝、ということがよくありました。それでも苦じゃなかった。体育会の4年間で、逆境に耐える準備ができたと思うんです」

 

(週刊FLASH 2018年11月13日号)

マラソン小鴨由水、五輪への道「毎日8kg背負って32kmラン」

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「悪質タックル」「奈良判定」が流行語大賞にノミネートされるなど、体育会パワハラが世間を賑わせた2018年。しかし、ひと昔前には、体育会は「理不尽」が日常だった。

 

 今と昔は何が違うのか。理不尽な体育会出身の小鴨(現・松永)由水氏(46)を訪ねた。

 

 

 1992年のバルセロナ五輪で女子マラソンを走った小鴨氏は、兵庫県立明石南高校時代、毎日32キロ走った。

 

「学校まで片道約6キロ。教科書やノート、制服、着替えを入れて7キロから8キロになるリュックを背負って走る。学校に着いてグラウンドを5キロ。放課後はロードを中心に15キロ。雨の日も関係なく、ほぼ毎日続けました。

 

 それでも800メートルのタイムが中学時代と変わらず、気落ちして、公園のベンチで深夜までボーッと過ごしたことも。でも毎日走るうちに、持久力と、上下動の少ないフォームが身につきました」

 

 社会人2年めの1992年。大阪国際女子マラソンを2時間26分26秒で優勝。五輪代表に選ばれた。

 

「もっと効率のいい練習方法はあると思います。ただ、誰かに強いられたわけではなく、ひたすら信じて走っていた努力は、無駄ではなかった」

 

(週刊FLASH 2018年11月13日号)

知られざる大相撲の「後援会長」どうすればなれる?何をする?

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断髪式での琴欧洲と金森さん

 

 相撲部屋にはそれぞれ、支えてくれる後援会があり、後援会長が存在する。大きな家族の一員のように相撲界と付き合っているタイプの後援会長もいれば、金森仁さんのようにスポーツのファンに近い人も。

 

 金森さんは、レスリングの伊調馨選手のパワハラ問題の際、倫理委員会のメンバーとしてマスコミを前に会見をした弁護士その人である。じつは元琴欧洲が2017年に作ったばかりの鳴戸部屋の後援会長だ。

 

 

「もともと相撲はテレビで見る程度にすぎなかったんですよ」

 

 金森さんの事務所の応接室。マスコミの前では淡々と話していた金森さんだが、相撲の話になると相好を崩す。

 

「2006年ですかね、顧問先にブルガリア大使館への出入りがある方がいまして。琴欧洲に後援会がなくて困っている、作りたいがどうだろうかという話をされたんですね。私は、そんなのやめとけよと」

 

「あ、そうなんですか?」

 

「ええ。ルールもはっきりしないし、金もいっくらでもかかる世界だと。でもね、『とりあえず琴欧洲に会うだけ会ってみてくれ』と言われまして。一度食事をしたんですね」

 

 金森さんにとっては、初めての力士との会合だったという。

 

「そこで琴欧洲が、『自分はお金を貯めてブルガリアに帰りたいんじゃなくて、将来は日本で力士を育成したい、そのために応援してくれる人を探してます』と言うんです」

 

 真面目で誠実なその人柄に打たれ、それならちょっとくらいは応援しようか、と思ったそうだ。

 

「最初は場所前の激励会から。私が10人、20人と人を集めて開催するんです。そこからだんだん深みに入っていきましてね。

 

 個人後援会を作るにあたり、周りから押し出されるような形で私が後援会長になったんです」

 

 それからは琴欧洲が引退するまで、個人の後援会長を続けた。結婚式、断髪式にも参加し、独立した後は部屋の後援会長を務めることになったという流れだ。

 

「一生懸命相撲を見るようになったのは、後援会をやるようになってからです」

 

 そこから金森さんは相撲にのめり込んでいく。

 

「毎場所2回は見に行きますが、朝の8時の序ノ口からずーっと見ますよ。やっぱり、見ていて全部面白いんです。

 

 稽古にも1、2カ月に1回ほど見学に行きますが、こういう稽古をしていて、こういう結果が出たとか。見ているとだんだん何が重要なのかがわかってくるんですね。かいなの返しだとか、足の運びとか、腕の絞りだとか。

 

 それぞれの取り口もありますよね。突っ込んでいく人、まわしを取りたい人。仕切りの時から勝負は始まっています。どう立ち合おうとしているか、目の動きですとか、いくらでも見るところはあります」

 

「スポーツとして、勝負として面白いんですね」

 

「それからその人にとってどういう一番で、どういう結果になったとかですね。6勝0敗同士の優勝がかかった一番とか、引退間近の人の一番とか。初日と中日と14日目とでは、取り口も変わってくる。緊張が取れたり、体調が変わったり」

 

「なんだか応援したくなりますね」

 

「でしょう。先場所負け越して、千秋楽パーティで泣いてたやつなんかがね、2カ月間必死に稽古して。

 

 なんでこれができないのかって悔し涙を流しながらの稽古ですよ。それで今度は勝ち越したってなれば、祝儀を渡したくなるでしょ」

 

 金森さんはにやっと笑う。後援会は1口1万円の年会費を払えば入会できる。何口も入る必要はない。ただ、個人で何かを贈るのは自由。祝儀としてお金を包む人もいれば、米や肉を贈る人もいる。

 

 なにも大金が必要なわけではない。そこにあるのは素直な気持ち、必死に頑張っている人のために何かしてやりたいという、人間誰しも抱く思いだった。

 

取材・文/二宮敦人

 

にのみやあつと
1985年生まれ。小説作品に『最後の医者は雨上がりの空に君を願う』。初のノンフィクション作品『最後の秘境 東京藝大 天才たちのカオスな日常』が12万部を超えるベストセラーに

 

(週刊FLASH 2018年11月27日号)

ポスト浅田真央の呼び声も「紀平梨花」スカートひらり事件

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2015年シーズンの紀平

 

 11月10日のNHK杯でシニアGPシリーズデビューし、いきなり優勝した紀平梨花(16)。取材記者の一人は、興奮を見せながらこう語った。

 

「彼女のいちばんのすごさは、苦手なジャンプがないこと。世界でも稀なジャンプの天才。おっとりして見えるが、頭の回転が早く、自分の言葉でしゃべれる」

 

 

 彼女が通っていた広田幼稚園(兵庫県西宮市)の岸圭一理事長は、「当時から運動神経は群を抜いていた」と話す。

 

「マラソンをすると、女子のなかでトップ。跳び箱も8段を跳んでいました。なんでも覚えるのが早く、まだできない子供たちの先生役をしてくれていました」

 

 広田幼稚園が採用していたのが「ヨコミネ式教育法」。女子プロゴルファーの横峯さくらの伯父・吉文氏が提唱する教育法で、「学ぶ力」「体の力」「心の力」を引き出す。

 

 走力、泳力、柔軟性などを伸ばすことに力を入れて、独自の「ヨコミネ式体操」をすることで、園児全員が逆立ちで歩けたりするほど。これが基礎となり、小学校入学後も身体能力の高さは際立っていた。

 

「鉄棒をするとビュンビュン回っていたし、走るのも速いし、器械体操も上手。

 

 卒業アルバムの文集に、NHK杯のフラワーガール(リンクに投げ込まれた花束などを拾う少女)になったことが嬉しくて、『私もNHK杯で花束をもらえる選手になりたい』と書いていました。自分の描いていた夢を実現させたことは本当に立派です」(大社小学校3年時の担任・田野ゆかり先生)

 

 上ヶ原中学の学年主任だった中村吉次郎先生はこう笑った。

 

「休み時間に『スケートをやってるなら、クルッと回ってみいや』と言うと、その場で上履きのまま2回転ぐらい回ってくれたんです。

 

 制服のスカートがふわっと舞い上がって、『先生、恥ずかしい』と、スカートを押さえて途中で着地しまして(笑)。

 

 まわりにいた女子が、『先生、セクハラ!』って(笑)。たぶん、スカートでなければ、2回転以上回れたと思いますよ」

 

 数年後、見事に氷上で3回転半を2回も跳んでみせた。

 

「彼女の3A(トリプルアクセル)は、浅田真央のように、跳ぶぞ、跳ぶぞ、という感じの無駄な力が入っておらず、曲に合わせて流れるように跳べる。高さと距離があって、着氷もきれい。

 

 国際スケート連盟の関係者も、『表現力やスピンは、まだまだ伸びしろがある。将来が楽しみな選手』と絶賛。世界が彼女に期待している」(スケート関係者)

 

 23日から仏大会に出場。シニアGPデビュー2連勝となれば、ザギトワ(ロシア)に並ぶ快挙だ。

 

(週刊FLASH 2018年12月4日号)


大相撲の後援会長ってなんですか?当事者に聞いてみたら…

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御嶽海と中澤さん

 

 7月の名古屋場所で初優勝を決めた御嶽海。その優勝パレードで旗手の栃煌山、そして御嶽海の前に座り、誰よりも目立つ位置で万歳をしていたおじさんがいた。出羽海部屋の名誉後援会長・中澤軍治さんだった。

 

「あの時はいろんな人から『グンちゃん、見たよ!』って電話がかかってきたよ。いい冥土の土産になったね」

 

 

 照れくさそうに笑う中澤さんは、業務用の乳製品などで有名な会社の役員でもある。物腰は終始柔らかく、気のいい痩身の老紳士という感じだ。

 

 取材で訪ねた応接室の隅にさりげなく置かれたプレートを見てはっとを呑む。

 

〈第七代横綱 稲妻雷五郎 曾祖父〉

 

「中澤さん、これは?」

 

「ああ、そうなんだよ」と中澤さんは頷いた。それが現在の相撲道楽にも繋がっているのだという。

 

「18くらいの頃かな。おれは正則高校ってところに行ってたんだけど、近くに喫茶店があってね。バナナとミルクをこう、ミキサーしたものが名物でさ、そこによく寄ってたんだよ。

 

 そうしたらたまたま、九州山さんがコーヒーか何かを飲みに来てたんだね。隣の麻雀屋に来て、その休憩だったのかな」

 

 九州山義雄。1930年代に活躍した力士である。2人が出会ったのは1956年頃。九州山はすでに引退して、出羽海部屋OBであった。当時は40代前半だ。

 

「マスターとママがね、おれを紹介してくれたんだよ。『そこの軍治という坊やのひいじいさんは稲妻雷五郎、7代目横綱だ』ってね。そうしたら九州山さんが、『今度遊びにいらっしゃい』と言ってくれてね」

 

 部屋に行き、稽古場で見学などしていると「2階に四角い土俵がお待ちでございます」と誘われて、一緒に麻雀をしたりしたという。

 

 おれと同い年の付け人と打ち解けてね。ずいぶん夜遊びをしたよ。おれは酒はさほど飲めないくせにキャバレーに行くのが好きでね。恥をさらすようだけど多額のツケをためてしまって、親父に頭下げて払ってもらった」

 

「よく払ってもらえましたね」

 

「ううん、親父も相撲が好きだったからね。それから国技館に遊びに来いよ、なんて言われてさ」

東洋の魔女・谷田絹子、いま明かす「回転レシーブ」誕生秘話

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「悪質タックル」「奈良判定」が流行語大賞にノミネートされるなど、体育会パワハラが世間を賑わせた2018年。しかし、ひと昔前には、体育会は「理不尽」が日常だった。

 

 今と昔は何が違うのか。理不尽な体育会出身の谷田(現・井戸川)絹子氏(79)を訪ねた。

 

 

 1964年の東京五輪で金メダルに輝いた、「東洋の魔女」こと女子バレー日本代表。当時「鬼」と呼ばれた故・大松博文監督の指導を受け、エースアタッカーとして活躍したのが谷田氏だ。

 

「コートの端のラインに立たされ、9メートル離れたネット近くに、先生がボールを投げる。取れるわけがないけど、追わないなんて許されない。取れるボールだけ練習してたら、試合で勝てるわけない。

 

 みんな次第にレシーブできるようになってました。ただ、あまりに理不尽なので、体育館の外に飛び出し『大松のバカヤロー』って叫んだこともありますよ。いつも先生に食ってかかってました」

 

 1960年、ブラジルの世界選手権で2位。そこから打倒ソ連を目標に編み出されたのが、回転レシーブだ。

 

「最初は怖くて飛び込めない。腰から背中までアザだらけで、座布団を腰に巻いてね。先生は『俺はせんでもできる』と言ってやらない(笑)。みんな文句言いながら練習してました」

 

 1962年、モスクワの世界選手権決勝でソ連を破り優勝。それで引退するはずだった。

 

「戻ってきたら、女子バレーが東京五輪の種目に選ばれていた。出るか出ないか、10日間ぐらい、大松先生と選手で話し合って決めたんです。

 

 回転レシーブも、みんなで試行錯誤して出来上がったもの。あのころは、やらされてただけじゃない。選手も強かったんです」

 

(週刊FLASH 2018年11月13日号)

大谷翔平「元女子バレー選手とラブラブ」説を突っ込まれる

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写真・日刊スポーツ/アフロ

 

 11月22日におこなわれた大谷翔平(24)の「凱旋会見」には、報道陣312人が集結。質問は多岐にわたったが、とりわけ注目を集めたのが、結婚について。大谷は、照れ笑いを見せながら答えた。

 

「まったくもってないです。いつまでについてもないですね(笑)」

 

 

 この質問が出たのにはわけがある。

 

「最近になって、元ロンドン五輪女子バレー日本代表の狩野舞子との噂が、ネット上に出た」(プロ野球担当記者)

 

狩野舞子(写真・アフロスポーツ)

 

 2人の仲が噂される根拠となったのは、大谷がつけている高級ブランドのブレスレットと、狩野がSNSで公開した写真でつけていたものがお揃いということからだった。

 

 また、狩野が誕生日である7月15日に、アメリカのドジャースタジアムでエンゼルス戦を観戦している様子の写真が、とあるSNSに公開されている。その日、大谷は打者として試合に出場していた。

 

「奇しくも会見日が、『いい夫婦の日』だったこともあり、電撃発表も期待されていた。あっさり否定されてしまった」(スポーツ紙芸能記者)

 

 狩野の所属事務所に2人の交際について尋ねたが、締切りまでに回答はなかった。だが、火のない所に煙は立たぬ、だ。民放関係者が語る。

 

「大谷は食品メーカーから食事面をサポートされていますが、その担当スタッフは狩野と仲がいい。その関係で知り合ったのではないか、といわれています。

 

 大谷はスタッフから、『結婚するなら年上の姉さん女房、競技者としての気持ちがわかり合える元アスリートがいい』とアドバイスされたという話もあります」

 

 ある球界関係者も、2人のエピソードについて証言をした。

 

「2人の関係は定かではないが、狩野さんは2017年、東京ドームでの日ハム戦に自分でチケットを買って訪れたそうです」

 

 まだまだ真相が見えない大谷の「結婚騒動」だが、別のスポーツ紙記者は、6歳上の狩野は「メジャーリーガーの妻」として最適だと語る。

 

「なぜなら、イチローと弓子夫人の8歳差夫婦をはじめ、田口壮や田中将大など、メジャーで活躍した選手は、姉さん女房の選手ばかりです。また、狩野は現役時代に海外でのプレー経験もあります」

 

 さらに、アメリカで大谷を一年間取材した記者が続ける。

 

「大谷が電話やLINEなどで、アドバイスを求めるのは松坂大輔、ダルビッシュ有、そしてイチロー。この3人は全員奥さんが年上で、ダルビッシュの再婚相手は、元レスリング世界女王の山本聖子。

 

 特にイチローに関しては、大谷自身が会見で、『(オープン戦の時期に)思いどおりにプレーがいかないところや精神的な部分』で助言を受けたと話すほど信頼している。

 

 彼らから『結婚するなら年上がいい』というアドバイスがあっても不思議ではありませんよ」

 

 2018年の春、都内の湾岸エリアに2億円のマンションを購入したばかりの大谷。そこを「愛の巣」にして、スケールも身長もビッグなカップルが誕生してほしいと願うばかりである。

 

(週刊FLASH 2018年12月11日号)

NBAドラフト間違いなし「八村塁」全米で絶賛される

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ゴンザガ大学公式サイトより

 

 11月26日(アメリカ時間)、全米大学体育協会はバスケットボール男子のランキングを発表し、八村塁が所属するゴンザガ大学が、今季初めて1位に浮上したことを発表した。

 

 八村は11月21日、ディーク大学に勝利して、大会MVPに輝いている。
 この試合を受け、米スポーツチャンネルESPNのマイロン・メドカルフ記者は、大谷翔平や大阪なおみと並び、今後、アメリカと海外で有名になるだろうと大絶賛していた。

 

 

 八村は、『Number Web』2015年9月28日でこう語っている。

 

「中学に入った頃からNBAに行くという夢があった。コーチが『お前はNBAに行くんだ』ってずっと言って、高い目標を持たしてくれたので、自分もモチベーションを高く持つことができました」

 

 中学のとき、友達に誘われてバスケ部に入部。運動神経抜群で、すぐに頭角を現し、全国でも知られる選手に。中3のときにはすでに身長が190cm近くあったという。

 

 高校は明成高校に入学。全国高校選抜優勝大会(ウィンターカップ)を3連覇するなど大活躍したが、目標は常にNBAだった。

 

「小さい頃から、ずっとアメリカに行きたいという思いがあって。たぶん、(アメリカの)ノリとかが好きなんだと思います。明るくて自由っていう感じ。そういうイメージがあるので、それが好きなんだと思います」

 

 八村には、NBAだけでなく、アメリカへの憧れがあった。
 父はアフリカのベナン共和国出身で、母は日本人。実は、英語がまったくできなかった。

 

 だが、高校バスケット部の代理顧問だった先生に英語をマンツーマンで指導してもらい、メキメキ上達。努力の甲斐あってゴンザガ大学に進学し、1年生から活躍した。ゴンザガ大学は、故郷の富山に似ていて、アットホームな環境が気にいっているという。

 

 ESPNの2019年ドラフト候補選手で12位に入るなど、日本人で初めてドラフト指名されるのはほぼ間違いない。今後の活躍に期待が集まるが、はたして2020年の東京五輪はどうか。

 

 日本は開催国だが、FIBA世界ランキングで49位だけに、出場権が与えられるかどうか微妙なところ。現在2019年のワールドカップアジア2次予選でF組4位につけており、この結果が東京五輪出場に大きく影響する。日本代表にはぜひ頑張ってもらい、八村の姿を東京五輪で見たいものだ。

貴景勝、極真空手から相撲に転身で快進撃が止まらない

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 千賀ノ浦部屋に転籍して迎えた九州場所で、初優勝した貴景勝(22)。昔からいまと変わらず、「稽古の鬼」だった。

 

「彼は小3から中3までうちの道場にいました。稽古は押し相撲が中心でしたが、普通の子は20番ぐらいでやめてしまう。

 

 

 ところが彼は30番、40番やってもへこたれず、しまいには50番、60番やって口から泡を吹いて、足が痙攣しても『もう一丁』と。何かあったらアカンと、こっちが怖くなりましたよ」(関西奄美相撲連盟・山口久義会長)

 

 場所前に2横綱が休場を表明し、稀勢の里(32)、豪栄道(32)までもが途中休場する事態。今場所は集客面で苦戦していただけに、貴景勝の存在は、まさに救世主だった。

 

 貴景勝の格闘技人生は、幼少期に始めた空手からだった。

 

「お父さんが有段者で、その影響で始めたのでしょう。彼は全国大会でも上位に入賞する実力者で、頑張り屋だった記憶があります」(極真会館関西総本部・坂本裕香氏)

 

 だが、ある大会の決勝での判定に納得がいかず、「判定のある競技はやりたくない」と、小3時からは相撲に転向した。

 

「お父さんが毎回稽古に来て、『何してるんだ。もっと行かんか!』と厳しく声をかけていました。勝負へのこだわりは、ほかの親子と比べものにならなかったですね。

 

 入ってすぐに、『将来は?』と聞いたら、『日本人横綱になる!』と即答でしたから」(前出の山口会長)

 

 父のスパルタは、食事面にも及んだ。

 

「体重を増やすため、父から450グラムのハンバーグ3枚、牛丼の特盛3杯を完食することを義務づけられていた。実際に小4で30キロ台だった体重は、小6で70キロ台になったが、トラウマとなって、ハンバーグが大嫌いになったとこぼしていた(笑)」(相撲担当記者)

 

 中学時代には、大学への出稽古も積極的にこなした。

 

「佐藤くん(貴景勝の本名)が中3のころで、ウチの大学の1年に宇良がいた。130キロの佐藤くんと体重差(宇良は65キロ)はあったけど、圧倒的に佐藤くんが強かった。『中学生でなんでこんなに強いの?』という驚愕が頭に残っている」(関学大相撲部の石坪昭宏総監督)

 

 その後、貴景勝は中学卒業と同時に角界入りを目指した。それを説得し、埼玉栄高校へ入学させたのが、同高校の山田道紀相撲部監督だった。

 

「基礎体力を作るうえでも、ウチに来てはどうかと誘いました。彼は幼いころから『横綱になる』と公言していましたし、稽古への貪欲さは飛び抜けていました。朝、夕の稽古に夜はランニングもあるんですが、彼はその後も一人で筋トレやダッシュを繰り返していました。

 

 相撲に対しては寡黙で神経質。そのほうが強くなりますね。勝っても反省するから。でも、土俵を離れるとおしゃべりで、明るい子でした。

 

 身長は? と聞くと、いつも180センチと(実際は175センチ)。足もそれほど大きくなかったけど30センチの靴を履く。それくらい大きくなりたいから、イメージが大切なんだと言ってました(笑)」

 

 九州場所の優勝で、初場所はいよいよ大関獲りへと勇往邁進する。

 

(週刊FLASH 2018年12月11日号)

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