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引退・松井稼頭央「18歳の娘は抱きついて泣きじゃくった」

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「本当に悩みましたが、とうとうこの時期が来たなと、決意しました」

 

 9月27日、日米通算25年にも及ぶ現役生活にピリオドを打つことを発表した松井稼頭央(42)。多くの報道陣が駆けつけたなか、できるだけ気持ちを落ち着けるかのように淡々と語っていたのだが……。

 

 

 しかし、それから10日余りたった10月9日、CSに向けて宮崎・南郷キャンプで調整中の松井を訪ねると、会見とは違った感情が溢れ出した。

 

「本音を言えば……できるのであれば、まだやりたい自分がいることも事実。やれる環境があれば、もう1年でもやりたいですよ。なかなか引退に踏み切れなかったのは、年相応ですけど、まだ体が動いていたということ。

 

 ここが自分のなかでいちばん引っかかっていたし、決断できない部分でした。体は動くのに成績がともなわない。でも、体は動くからまだやりたいと、大きな葛藤がありました」

 

 怪我をしているわけじゃない。体も動く。それでも結果が出ない。「そろそろかな」と感じはじめたのは、9月のことだった。 

 

「この時期、登録を外れたんです。本来ならファームで調整なり、試合に出たりするわけですが、一軍帯同を許された。で、一軍のメンバーと一緒に練習して、試合はサロンで観る日が続いた。このとき、なぜか気持ちがすごく楽になったんです。

 

 僕はプレッシャーのなかで戦ってきたんですが、ふと気が抜けたじゃないけど、楽な気持ちになった。そのときですかね、潮時なのかと感じたのは」

 

 引退を決め、まず報告したのは家族だった。 

 

「妻の美緒は薄々感じていたようで、『お疲れさま』と言ってくれました。9歳の長男はひと言、『知ってる』と(笑)。男のコなんで、こんなもんでしょう。
 

 でも、娘は引退を告げると、僕に抱きついて、何も言わずに泣きじゃくっていました。18歳になりましたが、娘なりに引退を感じていたんでしょう。父親として、本当に嬉しかった。

 

 結婚して18年になりますが、同時に18年は野球のことだけ考えてきました。それが許されたのも、家族のサポートがあってのことです。子供たちには、『次はお前らの時代やからな』って言いましたね(笑)」

 

 キャリア25年。思えば松井の野球人生は、“挑戦”の連続だった。投手として1994年にドラフト3位で西武に入団すると、すぐにショートにコンバート。さらに、スイッチヒッターに転向。楽天では外野手も務めた。

 

「僕のなかで“挑戦”という言葉が、いちばん前向きに考えられていたので。メジャー行きもそうでした。
 

 

 結果が出ずにバッシングも受けた。メッツ時代は、ホームで4万人の観客のうち、3万9000人くらいがブーイングですからね(笑)。けっこう心がやられましたよ。

 

 でもそれも含め、行ってよかった。ロッキーズに行って、ワールドシリーズにも出られましたし、あの7年間は本当に濃かった。自分で決断したことは、すべて成功だと思っていますから」

 

 そして、松井は最後の戦いに挑む。西武では通算11年めとなるが、じつは一度も日本一に輝いたことはない。

 

「楽天では日本一になりましたが、西武ではないんです。それがやめる年にリーグ優勝でき、日本一に挑める可能性がある。最高の終わり方ですよね(笑)。

 
 できることをしっかりやって完全燃焼したい。そしてリーグ優勝のときのように、みんなにまた胴上げしてもらいたいね」
 そう言ってインタビューを切り上げた松井は、練習が終わって誰もいなくなったサブグラウンドで、一人黙々と走りはじめた。最後にして最大のチャンスを逃す気持ちはさらさらない。

 

まついかずお 
1975年10月23日生まれ 大阪府出身 1994年、PL学園からD3位で西武入団。2004年、FAでメッツ移籍。その後、米で2チーム、2011年からの楽天を経て、2018年に古巣復帰。日米通算2705安打。盗塁王3回

 

(週刊FLASH 2018年10月30日号)


賞金総額830億…「武豊」をJRA通算4000勝に導いた3人の恩人

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 9月29日にJRA通算4000勝の偉業を達成した天才ジョッキー・武豊。その獲得賞金は約830億円にのぼる。

 

 

「昨日より今日、今日より明日、少しでもうまいジョッキーになっていたい」

 

 デビューから向上心を宣言しつづけてきた男の横には、いつも強い馬たちがいた。スーパークリーク、メジロマックイーン、オグリキャップ、スペシャルウィーク、ウオッカ、ディープインパクト、キタサンブラック……。

 

 武の騎手人生の栄光を語るには、パートナーであった名馬たちとともに、欠かすことのできない3人の恩師の存在がある。

 

 まず1人は、2016年に亡くなった父・邦彦さん。「ターフの魔術師」と呼ばれた騎手、のちに調教師だ。武のいちばん古い競馬の記憶は、「初めて日本ダービーを勝った夜、父が嬉しそうにしていたのをおぼろげに覚えています」というもの。

 

 中学校の成績は真ん中くらい。チームスポーツは苦手。ふだんはどこにいるかわからないほど目立たなかったという武が唯一夢中になったのが、10歳のときに始めた乗馬。

 

 父の背中を追い、ジョッキーになることを夢見たのは、ある意味、当然のことだった。

 

 2人めは、武の兄弟子にあたる河内洋氏(現調教師)。競馬学校を卒業後、武田作十郎厩舎の所属騎手になった武は、「競馬のことは河内に聞け」という師の言葉に従い、技術から人間関係まで、すべてを河内から学び取った。

 

「河内さんも無口な人で、ひとつひとつ説明してくれるわけではありませんでしたが、後ろにくっついているだけで、ものすごく勉強になりました。

 

 僕のいないところで、親しい調教師の先生に、『ユタカをお願いします』と、頭を下げてくれたり。今の僕があるのは河内さんのおかげです」(武、以下同)

 

 そして最後の1人が、河内にならえ、と武に命じた武田作十郎調教師だ。  

 

 若いころは、独りよがりの競馬をした騎手を、鞭を持って追いかけたという逸話が残っているほど厳しい武田氏だったが、武が出会った際は優しい好々爺だった。

 

「僕にとっては優しい先生。厩舎での仕事は、先生が飲むワインのコルク抜きと靴磨きでした」

 

 そんな武田調教師から、口を酸っぱくして武に何度も教え諭されたのが、「人に好かれる馬乗りになりなさい」という言葉だった。 

 

「いいか、ユタカ。技術だけがうまくなっても、いい馬乗りにはなれない。みんなから信頼される騎手、誰からも愛される騎手になりなさい」と教えられたという

 

 武田氏のこの言葉は、遙かなる道を歩んできた武の道標であったのだ。

 

JRA通算4000勝を達成した「武豊」が語る、最強の牡馬10頭

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引退後のディープインパクト

 

 9月29日にJRA通算4000勝の偉業を達成した天才ジョッキー・武豊。その獲得賞金は約830億円にのぼる。

 

「昨日より今日、今日より明日、少しでもうまいジョッキーになっていたい」

 

 

 デビューから向上心を宣言しつづけてきた男の横には、いつも強い馬たちがいた。スーパークリーク、メジロマックイーン、オグリキャップ、スペシャルウィーク、ウオッカ、ディープインパクト、キタサンブラック……。

 

怪物伝説を築いた牡の「スーパーホース」たちを、武のコメント付きで紹介する!

 

●オグリキャップ

 

 日本中を沸かせた「芦毛の怪物」と、「天才ジョッキー」の黄金タッグが実現したのは、わずか2度だけ(ともに1990年)。初タッグを組んだ安田記念と、今なお伝説として語り継がれている奇跡のラストラン、有馬記念だ。

 

「初めて調教に乗ったとき、これまで見たことがないほどの数のテレビカメラがずらっと並んでいて……。誰か有名人が来ているのかと思った。

 

 なぜ勝てたのか? 理由はオグリキャップだったから、としか言いようがありません」」(武・以下同)

 

 ゴールした瞬間、拳を握りしめたオジサンたちがぼろぼろと涙をこぼす姿が印象的だった。

 

(通算2勝/安田記念、有馬記念)

 

●キズナ

 

 東日本大震災からの復興を祈ると同時に、人との繫がりを大切にしたいという思いをこめて名づけられた。5度めの落馬骨折の影響で思うような結果が残せず、負のスパイラルに陥っていた武にとっても、この馬との出逢いが復活の狼煙となった。
 2013年の日本ダービー。府中の杜にこだました13万を超える人のユタカコール。

 

「みんなの喜んでいる顔が本当に嬉しくて。こんなにたくさんの人が待ってくれていたのかと思った瞬間、喜びが2倍にも3倍にもなりました」

 

(通算4勝/毎日杯、京都新聞杯、日本ダービー、産経大阪杯)

 

●サイレンススズカ

 

 同じメンバーで10回走ったら、10回とも違う結果になるのが競馬。しかし、それでもファンは、「武のパートナーで最強はどの馬だったのか」を熱く語る。そんなとき、必ず出てくるのがサイレンススズカだ。

 

「比べることに意味はないと思います。でも、今日の競馬ができたら、世界中のどんな馬が相手でも負けない。そう思わせてくれたのが、金鯱賞(1998年)で勝ったサイレンススズカの走りでした。あの衝撃は、今でも忘れることができませんね」

 

(通算5勝/バレンタインS、中山記念、小倉大賞典、金鯱賞、毎日王冠)

 

●スペシャルウィーク

 

「騎手を目指していたころから『ダービージョッキー』が夢だった」という武に1998年、初の冠をプレゼントしたのが、このスペシャルウィークだ。

 

 歓喜、熱狂、抑えきれない感情。何度も撥ね返されてきた高い壁だけに、それを成し遂げた瞬間、喜びが爆発した。

 

「最後の直線で鞭を落としたり、何度もガッツポーツを繰り返したり。振り返ると、全然、冷静じゃなかったですね。ゴールした瞬間は、やった! と叫びたいほど嬉しかったです」

 

 栄光を摑んだその日の夜、武は親しい友人たちに囲まれ、朝まで美酒に酔いしれた。

 

(通算9勝/3歳新馬、きさらぎ賞、弥生賞、日本ダービー、京都新聞杯、阪神大賞典、天皇賞・春、天皇賞・秋、ジャパンC)

 

●キタサンブラック

 

 演歌界の大御所・サブちゃん(北島三郎)と武が夢の合体ーー。その媒介役を務めたのが、平成の世に最後の伝説を刻んだキタサンブラックだ。

 

 表彰式では「顔がさぁ〜、俺にそっくりなんだよなぁ〜」と笑み崩れるサブちゃんの横で、すっとした姿勢で立つ武。

 

「いつか、彼の仔に乗ってまたGIレースを勝ちたいですね。それが、僕の今の夢です」。

 

「これが競馬の祭りだよぉ〜」というサブちゃんの豪快な歌声がもう一度、競馬場に響き渡るその日まで、武の騎手人生は終わらない。

(通算7勝/天皇賞・春2回、京都大賞典、ジャパンC、大阪杯、天皇賞・秋、有馬記念)

 

●スーパークリーク

 

 デビュー1年めに69勝を挙げて、早くもスター街道を驀進した武。その頂を極めるGIのタイトルを獲るのは容易ではなかった。GIを勝つ馬というのはどんな馬なのか? そんなときに出逢ったのが、このスーパークリークだ。

 

「初めてのGI制覇。これ以降、強い馬、GIを勝てる力がある馬なのかどうかを見極めるとき、このスーパークリークが基準になっています。すべてのきっかけは、彼との出逢いから始まったと言っても言いすぎではありません」

 

(通算7勝/すみれ賞、菊花賞、京都大賞典、天皇賞・秋、産経大阪杯、天皇賞・春、京都大賞典)

 

●バンブーメモリー

 

 騎乗前、調教師に向かって「先生、お願いします」と一礼するのが武のルール。これは、「馬乗りはうまいだけじゃだめだ。誰からも愛される騎手になりなさい」という、今は亡き師・武田作十郎調教師の教え。

 

 そして、1990年のスプリンターズステークスに勝利した日、武の前に立っていたのは、バンブーメモリーを管理する、父・武邦彦調教師。

 

「競馬場では調教師と騎手。きちんと一礼しました。ただ、ちょっとお互い照れくさかったんですけどね(笑)」。

 

(通算5勝/3歳未勝利、4歳400万下、道頓堀S、高松宮杯、スプリンターズS)

 

●メジロマックイーン

 

「メジロティターンの仔で天皇賞を勝って、悲願である『天皇賞父子三代制覇』を成し遂げてほしい」というメジロ牧場の大オーナー・北野豊吉氏の遺言により、武がコンビを組むことになったメジロマックイーン。

 

「いいレースをしてほしい」ではなく、「勝ってくれ」という強烈なメッセージ。心臓に毛が生えているといわれた武の表情も、さすがに緊張で強張っていた。

 

「勝った瞬間、嬉しさよりもプロのジョッキーとしていい仕事ができたと、ほっと胸を撫で下ろしましたよ」

 

(通算8勝/阪神大賞典2回、天皇賞・春2回、京都大賞典2回、産経大阪杯、宝塚記念)

 

●タニノギムレット

 

 落馬事故による骨盤骨折(2002年2月)の大怪我からわずか2カ月。奇跡の復活を遂げた武は、日本、シンガポール、フランスと世界の競馬場を駆け抜け、タニノギムレットが待つ日本ダービーの大舞台に帰ってきた。

 

「入院して最初の一週間は、数分おきに襲ってくる激痛のために、なかなか寝ることができなくて……。自分でも、よく間に合ったと思いますよ。

 

 あれが、3度めの日本ダービー制覇だったんです。表彰式で、小泉純一郎総理(当時)からかけていただいた『おめでとう!』という言葉は、今でも僕の宝物ですね」

 

(通算3勝/シンザン記念、アーリントンC、日本ダービー)

 

●ディープインパクト

 

 長い歴史を持つJRAにあって、一度も敗れることなく三冠を達成したのは、「皇帝」と称されたシンボリルドルフと、ディープインパクトのみ。その衝撃の走りにファンは度肝を抜かれた。

 

「初めて逢ったときは、小さくてかわいらしい顔をしていて、女の仔と間違えるほどでしたが、いざ乗ってみると、ほかの馬とはエンジン性能がまるで違う。すごいじゃなくて、やばい! というのが最初の印象でした」

 

 走るのではなく、飛ぶ。デビューから引退レースまで、すべてのレースに騎乗した武は、彼のことを「英雄」と呼んだ。

 

(通算12勝/2歳新馬、若駒S、弥生賞、皐月賞、日本ダービー、神戸新聞杯、菊花賞、阪神大賞典、天皇賞・春、宝塚記念、ジャパンC、有馬記念)

 

(週刊FLASH 2018年10月9日号)

JRA通算4000勝を達成した「武豊」が語る、最強の牝馬10頭

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天皇賞のウォッカ(2008年)

 

 9月29日にJRA通算4000勝の偉業を達成した天才ジョッキー・武豊。その獲得賞金は約830億円にのぼる。

 

「昨日より今日、今日より明日、少しでもうまいジョッキーになっていたい」

 

 

 デビューから向上心を宣言しつづけてきた男の横には、いつも強い馬たちがいた。スーパークリーク、メジロマックイーン、オグリキャップ、スペシャルウィーク、ウオッカ、ディープインパクト、キタサンブラック……。

 

怪物伝説を築いた牝の「スーパーホース」たちを、武のコメント付きで紹介する!

 

●ウオッカ

 64年ぶりに牝馬で日本ダービーを制した最強馬と、天才ジョッキーの夢のタッグ。このコンビが真価を見せつけたのは、2008年秋の天皇賞。

 

 同じく牝馬のダイワスカーレットとの火の出るような叩き合いを演じ、ほぼ同時にゴール。

 

「僕自身は同着かなと思ったんですが、検量室に戻ると、周りの空気がダイワ有利に傾いていて。あのときほど時間が長く感じられたことはなかったですね」(武・以下同)

 

 15分にも及ぶ長い写真判定の結果、わずか2センチの差でウオッカに軍配が上がった。

 

(通算3勝/天皇賞・秋、ヴィクトリアマイル、安田記念)

 

●オグリローマン

 

 オグリキャップの父違いの妹。兄と同じく地方競馬の笠松競馬場でデビューしたオグリローマンが中央移籍後、武とコンビを組んだのは4回。そのうちの1回が1994年の桜花賞だ。

 

「オグリキャップのファンが応援していたんでしょう、当日は3番人気。でも、まさか勝つとは思っていませんでした」

 

 兄同様、強運を持った彼女はゴール直前で運を引き寄せた。武自身も驚いたという。

 

「競馬って本当に難しいし、ゴールするまでわからないと思いました」

 

(通算1勝/桜花賞)

 

●ベガ 

 

 1993年、初めて武に「オークス」の勲章をプレゼントしたベガ。長い距離のほうが向いているといわれていた彼女に騎乗した武は語る。

 

「すべてが思い描いていたとおりに運んだレース展開だった」
 そして、続く桜花賞(1993年)もこのコンビで制覇した。

 

「GIという最高の舞台で、ここまで負ける気がしなかったというレースは珍しいですね。僕とベガは何もしていないのに、すべてがいいほうにと転がっていきましたから」

 

 6年後、武に日本ダービー連覇の勲章をプレゼントしたアドマイヤベガは、彼女の第一仔である。

 

(通算4勝/4歳新馬、チューリップ賞、桜花賞、オークス)

 

●エアメサイア

 

 デビューから引退まで、武が手綱を握り続けた牝馬の一頭。ディープインパクトで沸いた同年、牝馬クラシック戦線で、武のパートナーを務めたのがこのエアメサイアだった。

 

「桜花賞でラインクラフトに負け、挑戦者として挑んだ秋華賞(2005年)。正直、もう負けられない、負けたくないという気持ちが強かったですね」

 

 ゴール手前、数メートルでぐいっと首を伸ばし、ゴール板を駆け抜けたエアメサイア。鞍上の武が、渾身のガッツポーズを繰り返した。

(通算4勝/2歳新馬、エルフィンS、ローズS、秋華賞)

 

●ファレノプシス

 

「勝つために、イチかバチかの勝負をしました」

 

 武がこう語るのは、ファレノプシスとのコンビで挑んだ1998年の秋華賞。レースは想像していなかった超スローペースだった。後方でレースを進めていた武は、一瞬悩んだが、覚悟を決めた。

 

「最後までもたなかったら、そのときはしょうがない」

 

 前に進出し、最終コーナーで先頭に立つと、そのまま押し切った。ライバル馬の調教師たちが「馬は負けていない。武豊にやられたんだ」と歯嚙みするほど、鮮やかな勝利だった。

 

 

(通算3勝/桜花賞、ローズS、秋華賞)

 

●ファインモーション

 

「本気で追ったら、いったいどこまで伸びるんやろう? 想像するだけでわくわくした」

 

 武が半ば本気でそう語るのがファインモーション。

 

 デビューから5戦無敗で秋華賞制覇(2002年)。続くエリザベス女王杯で、名伯楽・伊藤雄二調教師から、初めて「全力で追ってほしい」と告げられた当時を振り返った武はこう語る。
「瞬間、ぞくっとしたのを覚えています」

 

 ファインモーションは受胎するのが難しい体質で、仔を残すことはできなかったが、彼女の走りが色褪せることはない。

(通算5勝/2歳新馬、秋華賞、エリザベス女王杯、阪神牝馬S、札幌記念)

 

●ダンスパートナー

 

 コンビを組んで勝ったのは、わずかに1度のみ。しかし武は、世界的な良血馬・ダンスパートナーをこう評価した。

 

「彼女も間違いなく名牝の一頭でした。唯一勝ったオークスは、けっこう、いや、かなり自信がありました。

 

 でも、いちばんの思い出は、フランスのGI(ヴェルメイユ賞)で、1番人気に支持されたことですね」

 

 レースの結果は、大雨による馬場の悪化で6着。しかし、このときに得た自信は、武にとってとてつもなく大きかった。

 

(通算1勝/オークス)

 

●エアグルーヴ

 

「なんてきれいな立ち姿なんだろう」

 

 それが、エアグルーヴを最初に見た武の感想だった。伊藤雄二調教師が漏らした「これで男のシンボルがついていたら、日本ダービー確実」というひと言には、最初は半信半疑だったと振り返る。

 

 しかし、彼女は紛れもなく本物だった。少女から成熟した女に進化した。牝馬としては17年ぶりとなる、天皇賞(秋・1997年)を制覇。

 

「能力のある女の仔は、男馬が相手でもびくともしない。時代の先駆けとなるような、最高に素敵な女性でしたね」。

 

(通算8勝/3歳新馬、いちょうS、オークス、マーメイドS、札幌記念2回、天皇賞・秋、産経大阪杯)

 

●シーキングザパール

 

 フランスのモーリス・ド・ゲスト賞を勝ち、日本初の海外GI馬に輝いたシーキングザパール。いい意味でも、悪い意味でも、彼女は飛び抜けた存在だった。

 

 デビュー2戦めの中山でのレース中に事件は起こる。大きく出遅れたシーキングザパールは、何を思ったか、外ラチに向かって一直線に走りだした。

 

「あのときは本当に焦りました(苦笑)。思わず、『ウソやろ』って叫んでいましたからね」

 

 必死に手綱を絞り、大事故には至らなかったが、武にとって恐怖の一瞬だったに違いない。

 

(通算7勝/3歳新馬、デイリー杯3歳S、シンザン記念、フラワーC、NZT4歳S、NHKマイルC、シルクロードS)

 

●シャダイカグラ

 

 ゲートが開いた瞬間、スタンドから悲鳴が上がった。大きく出遅れたのは大外枠、武が騎乗するシャダイカグラ。しかし、慌てず内側へと誘導すると、最後の直線で一気に先頭へ。武は、自身初となる桜花賞制覇(1989年)を成し遂げた。

 

 武が出遅れに関して多くを語らなかったことで、「伝説の出遅れ」として語り継がれてきた。

 

「みんなが伝説とか奇跡とか言ってくれるので、それはそれでいいかなと(笑)。でも、本当はただの出遅れです」。

 

(通算6勝/りんどう賞、京都3歳S、エルフィンS、ペガサスS、桜花賞、ローズS)

 

(週刊FLASH 2018年10月9日号)

襲撃されても耐え忍ぶ実況アナ「それでも新日本プロレスが好き」

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 新日本プロレスの勢いが止まらない。低迷期といわれた10年前からV字回復を果たし、2018年は同社最高売り上げを20年ぶりに更新する見込みだ。

 

 会場には “プ女子” と呼ばれる女性ファンも詰めかけ、チケットは入手困難。リングでは新たなプロレスムーブメントが起きている。その熱狂の要因とは?

 

 

 現在、『ワールドプロレスリング』(テレビ朝日系)のメイン実況を務める野上慎平アナが、プロレスファンに認知されたのは、飯塚高史に毎度のように襲撃されるようになってから。

「最初は、2010年8月に大阪で襲撃されたんです。みんな笑いますけど、襲われるほうはめちゃくちゃ怖いし、どういう反応が正解かもわからないし、本当に嫌でしたよ」(野上アナ)

 

 あるとき、襲撃される野上アナを永田裕志が助けたことで、2人の交流が生まれた。

 

「それ以来、永田選手の試合実況で僕も気持ちが入っちゃって、(永田のキャッチフレーズ・ブルージャスティスから)『ジャスティス!』を連呼してしまい、当時のプロデューサーから、うるさいと指摘されました。

 

 僕、1試合で20回くらいジャスティスって言ってたんです(苦笑)」

 

 その永田は、2015年の「イッテンヨン」で、事実上、トップ戦線から外れたことを意味する“第0試合”に組み込まれた。

 

「そのとき、『プロレスをやめようと初めて思った』と語っていた永田選手が、その思いをのみこんで、翌月にエースの一角である中邑真輔選手に挑戦したんです。

 

 負けてしまいましたが、ゼロから這い上がる永田選手の姿に自分を重ねて、僕も上を目指さなきゃと思わされました。試合後は涙が止まらなかったです」

 

 実況アナ就任時は「新日本プロレスに関心がなかった」という野上アナだが、選手たちの生きざまや言葉にふれ、新日本が大好きになった。

 

「中邑選手が僕の実況を、『暑苦しいけど、プロレスに真摯に向き合ってる感じがお前からは伝わってくるから、俺、好きだぜ』って言ってくれたんです。だから、中邑選手のWWEでの成功は本当に誇らしいです。

 

 僕、いつも言うんです。いまWWEで実現している『AJスタイルズ対中邑真輔の一騎打ちを初めて実況したのは俺だぞ!』って」

 

のがみしんぺい
33歳 岡山県出身 2007年にテレビ朝日に入社し、1年めから『ワールドプロレスリング』の実況アナウンサーを務める。棚橋弘至が主演を務める映画『パパはわるものチャンピオン』にも実況アナ役で出演

 

(週刊FLASH 2018年10月2日号)

3戦連続4得点!香川真司を食った「南野拓実」16歳の誓い

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「絶対に見返してやる!」   

 

 南野拓実(23)は、ロシアW杯メンバー落選の報を聞いたとき、周囲の人間にこう宣言していたという。

 

 

 それから5カ月余り、南野は有言実行を結果で示した。森保ジャパン発足から3戦連発4得点。試合後「3戦連発は、もちろん狙っていました」と言った、強気な姿勢も彼の魅力だ。

 

 それは、幼いころから培われていた。幼稚園時から練習に参加していたゼッセル熊取FCの杉山恵三代表が振り返る。

 

「いつまでもボールを蹴っているような子供でした。幼稚園時代は、みんなに出場機会を与えていた。それである試合で『拓実、交代やぞ』と下げると、『先生、なんで交代さすん? 僕、サッカー好きやから、もっと出してや』と。

 

 たくさんの子供を見てきましたが、そういうことを口にしたのは彼だけでした」

 

 同クラブの比嘉陽一コーチも、負けず嫌いな性格を目のあたりにした。

 

「公式戦ではあまり勝てなくて悔しい思いをしていたんですが、どの試合でも負けたら泣いて帰っていきました」

 

 その後、彼はセレッソ大阪U-15に進み、各カテゴリーの日本代表にも選出された。2011年にメキシコで開催されたU-17W杯ではCF(センターフォワード)として日本をベスト8に導く活躍をした。

 

 だが、自身は満足のいく結果ではなかったようだ。帰国後、通学していた大阪・興國高校のサッカー部監督の内野智章氏に悔しい胸の内を打ち明けた。

 

「大会の感想を聞くと、『自信になる部分はあったけど、ここから先は、今みたいなCFでは成長は難しい』と言ってきたんです。

 

 世界のCFは大柄で、スピードもある。彼も日本では身体能力が高いほうですが、世界はもっとすごい。そこをしっかり分析し、『これからはCFではなく、トップ下にポジションを下げていったほうがいいと思っています』と言うわけです。

 

 また、『そこで勝負するなら、ドリブルでもっと仕掛けなければ』とも。ウルグアイ戦は、ポジションもドリブルも、あのときに言ったとおり。16歳の時点で、現在のことを思い描きはじめていたんだなあと、再確認して驚きました」

 

 日本代表の森保一監督(50)は就任以来、新旧交代を強調してきた。 

 

「それは多くのポジションで求められているが、香川真司のトップ下は後継者不在で、もっとも世代交代が難しいのではといわれてきた。だが南野の活躍で、それは杞憂に終わった」(スポーツ紙記者)

 

 南野の活躍をもっとも喜んでいるのは、森保監督なのかもしれない。

 

(週刊FLASH 2018年11月6日号)

工藤公康も福浦和也も「ドラフト最下位」から勝ち上がった男たち

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福浦和也

 

 10月25日におこなわれるプロ野球ドラフト会議。第100回記念大会となった今夏の甲子園大会を盛り上げた大阪桐蔭高校・根尾昂投手や金足農業高校・吉田輝星投手など話題の選手が、どの球団に1位指名されるのかが注目されている。

 

 

 ドラフト会議は1965年から53年で57回(1966年の1次、2次の分離ドラフトや2005年から2007年の高校生と大学・社会人の分離ドラフトでは1年で2度)開催されてきた。

 

 そして、会議自体をボイコットした1978年の巨人以外は、毎年12球団が指名をおこなったため、これまで683人のドラフト1位が誕生したことになる。

 

 しかし、輝かしいドラフト1位がいれば、その陰に隠れた「ドラフト最下位指名」の男たちも683人いるのだ。

 

 これまで「最下位指名」を受けて入団拒否をしたのが97人、ドラフト資格がなかったなどで指名取消になったのが2人、プロに入団したのは584人(1度入団拒否をし、翌年以降の指名で入団したものなどは含まない)だ。

 

 入団した選手584人のその後を見ると、184人が一軍での出場なしのままプロ球界を去っている。割合にして、31.5%にあたる。ドラフト1位の場合は入団683人中1軍未出場が35人と、全体の5.1%のみ。

 

「最下位指名」の選手たちは一か八かのプロ野球人生を歩んでいる。そのなかでも、成功を摑んだ選手を紹介する。

 

●島谷金二
 1968年ドラフト9位(四国電力→中日・三塁手)

 

 社会人時代の二塁手から三塁手に転向し、プロ1年めからレギュラーに定着。ベストナイン2回、ダイヤモンドグラブ賞4回を獲得。通算1514安打。中日入団前に3度のドラフト指名を拒否しており、9位指名は中日にとっても入団してくるかどうか一か八かだった。

 

●大木勝年
 1970年ドラフト16位(早稲田大学→ヤクルト・投手)

 

 早大では4年からの活躍だったので、近年ではほとんど見ることがない「16位指名」で入団。現役生活は20試合登板、1勝とほとんど活躍できなかった。しかし、引退後フロント入りし、2010年にはヤクルトの常務取締役に昇格した。

 

●工藤公康
 1981年ドラフト6位(名古屋電気高校→西武・投手)

 

 47歳まで現役を続けた大投手も、実は最下位指名。しかし、その経緯は社会人野球への就職を発表し、プロ拒絶の姿勢を取っていたところ、西武が強行指名した。高校時代の素質はかなりの注目株だった。通算224勝は「最下位指名」投手では最多。

 

●佐々木誠
 1983年ドラフト6位(水島工業高校→南海・外野手)

 

 高校時代の投手から外野手に転向して入団。当時の南海には「ミスターブレーブス」こと長池徳士ら名コーチがおり、素質が開花。1992年には首位打者と盗塁王を獲得し、全盛期には「MLBに最も近い選手」とまで言われた。その後、西武、阪神と渡り歩き通算1599安打。

 

●福良淳一
 1984年ドラフト6位(大分鉄道管理局→阪急・二塁手)

 

 今季までオリックス監督を務めた。プロ入り当初は当時阪急監督だった上田利治氏の厳しい指導に音を上げたが、2年めの1986年にはレギュラーに定着。清原和博と新人王を争った。その後、守備と堅実な打撃が評価され1億円プレーヤーに登りつめた。

 

●福浦和也
 1993年ドラフト7位(習志野高校→ロッテ・一塁手)

 

 ドラフト会議では全体70選手中70番めの指名と本当の「最下位指名」に。高校時代には注目の投手だったが、最後の夏に3回戦であっさり敗退したため、この評価だったのかもしれない。プロ入り後、「1年は投手をやらせてくれ」と懇願するも芽がなく、打者に転向。2001年に首位打者を獲得。今年9月22日には「最下位指名」では初の2000本安打を達成。

 

●宮崎敏郎
 2012年ドラフト6位(セガサミー→DeNA・三塁手)

 

 ドラフト時は同じくDeNAに進んだ社会人時代の同僚・赤堀大智(4位指名)よりも評価が低かった。しかし、身長172センチと小柄ながらパワーのある打撃を発揮。昨年首位打者を獲得し、今シーズンも打率.318、28本塁打とDeNAの主軸打者を務めている。

 

 ほかにも、鉄道文化人としても活躍している屋鋪要(横浜大洋6位指名)、伊東勤と名捕手の座を争った田村藤夫(日本ハム6位指名)、2015年に打点王に輝き優勝に貢献した畠山和洋(ヤクルト5位指名)、来季も楽天の監督を務める平石洋介(楽天7位指名)なども「最下位指名」だ。

 

 今年のドラフトにも「後列」から同期を追い抜く原石は現われるのだろうか。

根尾昂は中日へ…いま「ドラフトの歴史」を振り返る

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胴上げされる根尾昂

 

 10月25日、プロ野球ドラフト会議が開かれた。
 最注目選手は、第100回全国高校野球で優勝した大阪桐蔭高校の野手・根尾昂だ。中日、日本ハム、巨人、ヤクルトの4球団が競合し、中日が交渉権を獲得。
 また、準優勝し「金足農フィーバー」を巻き起こした秋田県立金足農業高校のピッチャー・吉田輝星は日本ハムが獲得した。

 

 

 今年は、以下のような結果になった。

 

・阪神 近本光司(大阪ガス)
・DeNA 上茶谷大河(東洋大)
・ヤクルト 清水昇(国学院大)
・中日 根尾昂(大阪桐蔭)
・巨人 高橋優貴(八戸学院大)
・広島 小園海斗(報徳学園)
・楽天 辰己涼介(立命大)
・オリックス 太田椋(天理)
・ソフトバンク 甲斐野央(東洋大)
・ロッテ 藤原恭大(大阪桐蔭)
・日本ハム 吉田輝星(金足農)
・西武 松本航(日体大) 

 

 2017年に引退した選手は、日本野球機構の調べでは126名で、その平均年齢は29.4歳と、30歳手前でプロ野球の世界から去る。さまざまなドラマを見せてきたドラフトの歴史を、振り返ってみよう。

 

【日本プロ野球ドラフトの歴史】

 

●第21回(1985年)
 PL学園高校で甲子園を沸かせた桑田真澄と清原和博の「KKコンビ」。清原は読売ジャイアンツの入団を希望し、桑田は早稲田大学の進学を表明していたが、読売ジャイアンツは桑田を1位指名。大学進学せず入団する。清原は6球団から指名を受けたものの、巨人から指名されず、ドラフト後の記者会見で涙を流す。

 

●第22回(1986年)
 史上初12球団すべてがドラフト1位に投手を指名する。

 

●第23回(1987年)
 長嶋茂雄の長男・長嶋一茂(立大)がヤクルトスワローズと大洋ホエールズに1位指名を受け、ヤクルトが交渉権を獲得。

 

●第24回(1988年)
 福岡ダイエーホークスは1位、2位、3位、6位の指名が重複し、抽選にすべて失敗。

 

●第25回(1989年)
 野茂英雄が史上最多の8球団から指名を受け近鉄バファローズに入団。契約金は史上初の1億2000万円。契約時に「トルネード」投球を変更しないという条項がもりこまれた。

 

●第26回(1990年)
 小池秀郎が最多タイ8球団から指名を受けロッテオリオンズが交渉権を獲得するも指名を拒否。松下電器野球部でプレー。

 

●第27回(1991年)
 オリックスブルーウェーブが投手としてドラフト4位で鈴木一朗(イチロー)を指名。その他にも田口壮、中村紀洋(近鉄)、石井一久(ヤクルト)、斎藤隆(横浜)など、のちのMLB経験者が指名される。

 

●第28回(1992年)
 甲子園で5打席連続敬遠を受けた星稜高校の松井秀喜が4球団競合の末、読売ジャイアンツが交渉権獲得。当時読売ジャイアンツ監督の長嶋茂雄自らくじを引き、交渉権獲得とわかり、大きくガッツポーズ。当時、松井は阪神タイガース入りを希望したが、長嶋から直接電話を受け感動し、読売ジャイアンツに入団。

 

●第29回(1993年)
 大学生・社会人の選手で1球団につき2名までの対象選手が、自ら希望するチームを宣言することができる「逆指名制度」が認められる。

 

●第30回(1994年)
 福岡ダイエーホークスが駒沢大学進学予定の城島健司を1位で強行指名。これをきっかけにプロ入り拒否をした選手はドラフト会議で指名できないというルールが定められる。

 

●第31回(1995年)
 福留孝介が高校生史上最多の7球団から指名され、近鉄バファローズが交渉権を獲得するも入団を拒否。日本生命に進む。

 

●第32回(1996年)
 アトランタオリンピックで活躍した井口資仁、松中信彦、谷佳知らが上位指名をされる。

 

●第33回(1997年)
 高橋由伸が読売ジャイアンツを1位で逆指名。千葉ロッテマリーンズファンが地元出身の高橋を逆指名するようにと署名運動が起きる。

 

●第34回(1998年)
「平成の怪物」横浜高校の松坂大輔が、日本ハムファイターズと横浜ベイスターズ、西武ライオンズに1位指名され、西武ライオンズが交渉権を獲得し入団。当時は横浜ベイスターズが意中の球団だった。MLBでプレイした上原浩治、福留孝介、2018年日本プロ野球初となる1000試合登板を達成した岩瀬仁紀が指名される。

 

●第35回(1999年)
 國學院久我山高の河内貴哉が広島東洋カープに1位指名を受け入団。高校生として球団史上最高の1億円で契約。

 

●第36回(2000年)
 横浜ベイスターズ以外の11球団が投手と捕手を1位に指名。内川聖一がベイスターズに1位指名され、20世紀最後のドラフト外野手1位になる。

 

●第37回(2001年)
 甲子園で最速154キロを記録した寺原隼人が4球団競合の末、福岡ダイエーホークスが交渉権獲得。「逆指名制度」からドラフト前に大学生・社会人を2名以内獲得できる「自由獲得枠制度」に変更される。

 

●第38回(2002年)
「松坂世代」の大学卒業にともない、村田修一、和田毅、新垣渚が上位指名を受ける。

 

●第39回(2003年)
 全球団競合なしで無抽選となる。

 

●第40回(2004年)
 東北高校のダルビッシュ有が北海道日本ハムファイターズに1位指名される。
 明治大学の一場靖弘に対し、読売ジャイアンツが「栄養費」を名目に200万を授受していたことが発覚。結局一場は新規球団の東北楽天ゴールデンイーグルスが希望入団枠制度で獲得。
「自由獲得枠制度」が入団枠を1人に改正し「希望入団枠制度」に変更される。
 辻本賢人がドラフト史上最年少15歳で阪神タイガースに指名される。

 

●第41回(2005年)
「高校生」と「大学生・社会人」に分割され別々の日に開催される。
 大阪桐蔭の辻内崇伸と福岡第一高校の陽岱鋼の交渉権の抽選結果が誤って発表される。原因は当たりくじがNPBの印と「交渉権獲得」と書かれ、ハズレにはNPBの印だけが押されていたがNPBの印が当りだと勘違いしたため。

 

●第42回(2006年)
 駒大苫小牧高校の田中将大が4球団競合の末楽天ゴールデンイーグルスに入団。11球団競合するなかで広島東洋カープがPL学園高校の前田健太を競合なしで1位指名。

 

●第43回(2007年)
 日本ハムファイターズが大阪桐蔭高校の中田翔を1位指名し入団。西武ライオンズが2004年から2005年にかけてアマチュア2選手に対し不適切な金銭の授受が発覚。これを受け同年の高校生ドラフトで上位2名分の指名権剥奪を受ける。
「希望入団枠制度」が撤廃される。

 

●第44回(2008年)
 新日本石油ENEOSに所属していた田澤純一がMLB挑戦を表明。プロ野球12球団にドラフトを見送りを求める文書が送られた。同年、田澤はボストン・レッドソックスに3年総額400万ドル(当時約3億8000万円で契約。
「高校生」と「大学生・社会人」のドラフトが再統合される。

 

●第45回(2009年)
 プロ野球12球団とMLB8球団とも面談した花巻東高校の菊池雄星がドラフト1位で埼玉西武ライオンズに入団。寮に入る際は50冊以上の本を持ち込む。

 

●第46回(2010年)
 2006年甲子園を沸かせた「ハンカチ王子」こと斎藤佑樹が4球団争奪の末、北海道日本ハムファイターズに入団。新人にもかかわらず本拠地の札幌ドームで入団会見を行う。

 

●第47回(2011年)
 東海大の菅野智之が北海道日本ハムファイターズと読売ジャイアンツが指名され、北海道日本ハムファイターズが交渉権を獲得する。しかし、叔父にあたる原辰徳が当時監督をしていた読売ジャイアンツを希望していため入団を拒否。1年間野球浪人を経て翌年読売ジャイアンツから1位指名を受ける。

 

●第48回(2012年)
 花巻東高校の大谷翔平を北海道日本ハムファイターズが指名権を獲得。MLB挑戦を表明していた大谷に「大谷翔平君 夢への道しるべ~日本スポーツにおける若年期海外進出の考察~」と題した資料を提示。日本のプロ野球からのほうがMLB挑戦がしやすいことを説明。「投手」と「野手」の二刀流で起用するプランを提示し入団。

 

●第49回(2013年)
 桐光学園高校の松井裕樹が4球団競合の末、楽天ゴールデンイーグルスに入団。

 

●第50回(2014年)
 京都大学の田中英祐が千葉ロッテマリーンズから2巡目で指名され入団。京都大学では工業基礎科学を専攻。卒業論文のテーマは「SFA(表面力測定装置)における水和構造の逆計算理論」。

 

●第51回(2015年)
 東京ヤクルトスワローズと阪神タイガースが明治大学の髙山俊を指名し抽選に。その際ヤクルトの真中満監督が抽選結果を勘違いしガッツポーズ。抽選結果が修正され交渉権は阪神へ。金本知憲監督がインタビューで「ビデオ判定でホームランが覆った心境」と答える。

 

●第52回(2016年)
 前年の交渉権訂正にともない、当たりの場合には「交渉権獲得」の印、ハズレは白紙になった。

 

●第53回(2017年)
 早稲田実業高校の清宮幸太郎が高校生最多タイとなる7球団から指名を受け、北海道日本ハムファイターズが交渉権を獲得。交渉権を引いた木田優夫GM補佐はドラフト前にお笑い芸人・明石家さんまから「左手で行け」とアドバイスされた。


カープ選手たちを鋼の肉体に変えた「筋トレ道場」を発見!

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セーフティスクワットをする丸と、平岡氏(左)

 

 2017年度セ・リーグMVPの丸佳浩(29)と、2016年度同MVPの新井貴浩(41)。同じチームに所属する12歳差の2人が、鍛錬し、語らうジムがある。広島カープに受け継がれている「肉体改造」という強さの伝統に迫った。

 

 今シーズンの広島は、球団史上初となるリーグ3連覇を果たした。球界の歴史でも、2リーグ制以降の3連覇以上は13例目の快挙。広島といえば、古くから猛練習で有名である。あまりのスパルタぶりに、新人選手は怖気づいたものだった。

 

 

 1990年代には、グラウンドだけではなく、ウエイトトレーニングも充実を極めていく。きっかけを作ったのは前広島監督の野村謙二郎(52)であり、阪神監督の金本知憲(50)だった。

「広島での金本は練習の虫だったが、線が細かった。そこで筋トレを取り入れ、鋼の肉体を得た」(担当記者)

 

 その系譜は、のちの新井、丸、そして鈴木誠也(24)へと脈々と受け継がれている。その鍛錬の現場であり、広島の主力選手の多くが出入りするのが、スポーツジム「トレーニングクラブ・アスリート」。代表の平岡洋二氏が語った。

 

新井(右)

 

「新井は、金本の影響が大きかったと思う。『試合が終わった後、バットを振ってから帰れ』とか、金本が具体的な指示を出していた。オフでウチに来ても『カネさん、今日来ました?』とかいつも気にしていた。

 

 初めはやらされていると感じていたのか、新井の迷言で『やらされる練習も身につく』というのがあるからね(笑)。そんな彼も、金本がFAで出ていったころから変わりだした。自分からやるという姿勢に。

 

『いまからやらせてほしい』と、夜の10時くらいに来て、夜中までつき合わされたことも。若いころには考えられなかったよ。今季で引退したら『もうトレーニングはしない』って(笑)」(平岡氏、以下同)

 

 優勝を決めた9月26日のヤクルト戦で、先制&決勝打を放った丸は、新井と比べると「何事にもストイックで、自分から動くタイプ」だったという。

 

「一年めから来ていたけど、いろんな人に『絶対覚えておけ。必ず出てくるから』と言いまくった。別格ぐらいに筋力が強かったから。

 

 ただ、コンディションに対する意識がなかった。オフのトレーニングで体重を増やしても、シーズンで元の体重より減ってしまう。それからサプリメントの摂り方も研究するようになって、シーズン中も体重を維持できるようになった。

 

 セーフティスクワットのMAXは340キロ。毎年10キロぐらいずつ重くしていって、ここまでできるようになった。いまはチームでいちばん強い。

 

 昨年、MVPを獲ったけど、以前から期待していたのは本塁打。筋力の強さは別格で、遠くに飛ばす力も十分。今年の成績は体力的、筋力的なものから見ると、当然の結果だと思う」

 

 また、鈴木も筋力的に驚かされた選手の一人だという。

 

「トレーニング反応がいい。たとえば、今日50キロでヒーヒー言ってたのが、翌週には60キロができるようになり、さらに翌週は70キロができるイメージ。やらせればやらせるほど反応がよくなる。“神ってる”とブレイクした一昨年は、シーズン中に体重が増えていた。それは身心のコンディションがいいということ」

 

「アスリート」では主力だけでなく、次世代の若手も汗を流している。グラウンド外でも足りない部分を鍛える。そうした姿勢が、広島の強さの一因だ。

 

(週刊FLASH 2018年10月16日・23日号)

ドラフト1位指名選手の成績を追跡「安打」は巨人と中日に軍配

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根尾昂

 

 プロ野球ドラフト会議が2018年10月25日に行われた。目玉となった大阪桐蔭の根尾昂は、中日が交渉権を獲得。根尾は岐阜県飛騨市出身で、まさに地元球団に決まったことで、笑顔をみせていた。

 

 本誌は、セ・パ13球団がこれまで「ドラ1」で獲得したスター選手の戦績を振り返り、最高成績の選手と、各球団のスカウト眼力を検証することにした。

 

 

 

 

 1965年の第1回ドラフトからの、ドラフト1位選手(自由獲得枠、希望入団枠を含む)についての、各球団の生涯投打成績ベスト3を上の表にまとめた。

 

 ドラフトは、球団編成、スカウトが、その選手のポテンシャルを評価するものなので、移籍後の成績も含めてある。

 

 阪神の勝利数2位に、江川卓がいることに違和感を持たれる方は多いだろう。いわゆる「江川事件」で、入団後すぐに小林繁とのトレードで巨人に移籍した江川抜きなら、2位は山本和行が繰り上がり、3位に能見篤史が102勝で入ってくる

 

 セ・パのトータルでは、セは投打ともにパを上回っている。これは、長く続いた「セ・パの格差」が影響している。昔のアマのトップ選手は、セ・リーグ を名指しすることが多かった。

 

 パ球団が指名すると1位でも入団を拒否した。そのために、パ球団は「これは」と思う秘蔵っ子は、下位指名やドラフト外(現在は廃止)で密かに獲得した。秋山幸二は1980年のドラフト外、イチローは1991年のドラフト4位で入団したのだ。

 

 NPBで最多安打のドラ1選手は立浪和義で、2480安打。本塁打は山本浩二の536本、勝利は山田久志の284勝、セーブは佐々木主浩の252が最多だ。

 

 安打数は、松井秀喜(2643)、阿部慎之助(2085)、高橋由伸(1753)を抱えた巨人が圧倒的だが、立浪和義、福留孝介(2306)、谷沢健一(2062)を抱えた中日の安打数も光っている。

 

 ドラ1選手には、MLBを経験した者が29人いる。日本球界から移籍し、MLBで出場した日本人選手は全部で57人。半数以上がドラ1だ。

 

 日米通算での記録になると、最多安打は松井秀喜の2643安打(日1390安打、米1253安打)、本塁打も松井秀喜で507本(日332本、米175本)、勝利は野茂英雄の201勝(日本78勝、米123勝)、セーブは前出の佐々木主浩が日米通算でも、381(日252、米129)で最多だ。

 

 大谷翔平は日米通算389安打70本塁打、46勝。どこまで数字を伸ばすか。

 

 一方、ドラ1で入団しながら一軍の試合に出ることなく去った選手は35人。厳しい世界だ。

 

※表中の成績は、2018年シーズン終了時点のNPBとMLB通算
※球団名は2018年現在(近鉄は2004年で消滅)

 

(週刊FLASH 2018年11月6日号)

元ヤクルト加藤幹典、サラリーマンを経てワインバー開業

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 2018年も逸材揃いだったプロ野球ドラフト会議。東大合格より難しいといわれる世界に飛び込んだ、かつての「選ばれしエリート」である、元ヤクルトの「ドラ1」加藤幹典を訪ねた。

 

「調子自体はよかったんです。でも腕は思いっきり振れているんだけど、球に力が伝わっていかない。大学では最速150キロの速球が、148キロ止まり。

 

 

 年を重ねていくうちに球速は下がり、プロ3年めは140キロ出るか出ないかまで落ちていきました。そのとき初めて肩の痛みが出て、精密検査を受けたんです。

 

 結果、筋肉の反応がなく、神経麻痺の状態でした。もっと早くに受けていれば、 違った形になっていたのではという後悔はあります」

 

 期待は感じていた。ただ、重圧とはとらえていなかった。

 

「自分ではやれるもんだと思っていましたから。上位指名と下位のそれとでは、違いは感じました。

 

 二軍でも登板回数が多く与えられ、一軍に行きやすいというか。でも、4年めには登板回数が減ったり、敗戦処理と出方が変わってきた。『そろそろだな』と覚悟はしていました」

 

 退団後は、ヤクルト本社でサラリーマン生活を経験した。

 

「退団後、すぐに独立を考えていたんです。ところが妻に、『社会人生活を3年続けてからにして』と強硬に反対されました。

 

 妻はフリーライターとして社会にもまれていたし、8歳年上。僕の事業計画が『夢物語でしかない』ことや、社会人としてのスキルがないとわかっていたんでしょう。

 

 社会人としての約5年間は、いまの仕事にたいへん役立っていますし、妻には頭が上がりませんよ(笑)」

 

 2018年6月に、念願だったワインバー「Bridge Bar East」を池袋にオープン。ジョージアワインとおいしい料理を楽しめるお店だ。今後は店の経営と、野球の普及を目指す。

 

「選手にとって、引退後のセカンドキャリアは大きな問題。そのサポートも考えています。それには『箱』(子供たちを指導できる施設)を持ちたい。元選手を雇うこともできる。来年には実現したいと考えています」

かとうみきのり
1985年6月4日生まれ 神奈川県出身 背番号「16」で、石井一久の後継者と期待されたが活躍できず。プロ4年間の通算成績は23試合1勝3敗、防御率9.13

 

(週刊FLASH 2018年11月6日号)

貴乃花、九州でタニマチ行脚に相撲協会が「目障りだ…」

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「四股を踏んでみなさい」

 

 こう語り、少年の動きをじっくりと見つめるのは元親方の貴乃花(46)だ。彼には、前々から大きな夢がある。

 

「俺は本気で全国に土俵を作りたい。相撲をやってみたくても、土俵がないのが現状だから。そこで子供や指導者の育成にも取り組むつもりだ」

 

 

 貴乃花は退職前から、関係者との相撲談義になると、このように話し、相撲界の変革を訴えていた。少年の四股を見ていたのは、3日に福岡県田川市の「炭坑節まつり」に参加したときのひと幕。

 

「田川市には九州場所の際に、毎年宿舎や稽古場などを提供してきた田川貴乃花部屋後援会があり、たいへんお世話になった土地。退職後、 “初仕事” にここを選んだのも、そのことからです」(後援会関係者)

 

 この日の貴乃花は終始、上機嫌。元後援会員の出店に自ら立ち、開会セレモニーでは、「これからも田川に携わっていきたい」と語り、地元住民から大歓迎を受けた。

 

 これを苦々しく思っているのは相撲協会。ある親方が語る。

 

「元弟子たちも千賀ノ浦部屋に合流し、協会全体が新しい気持ちで九州場所を迎えようとしている。だから、『目障りだ』という気持ちですよ」

 

 炭坑節まつりで開催された「チビッコ相撲大会」には、来賓として、浅香山親方(元魁皇)の姿も。しかし、浅香山親方と貴乃花は10メートルほどの距離にいても、互いに目も合わせないほどだった。

 

 夢のとおり育成の道へ……といっても、「それだけでは到底やっていけない」という、周囲からの声も。

 

「貴乃花部屋は以前から資金が潤沢ではなかった。家賃滞納もあったと聞く。現在、協会からの収入はなくなったが、それでも家賃が70万円強の元相撲部屋の物件を借り続けている。

 

 退職を『途中で投げ出した』ととらえて、彼のもとを離れていった人も多い。その引き留めや新たなスポンサー探しを画策中。

 

 だからこそ最近は、後援会、支援者らタニマチをまわり、変わらぬ支援をお願いするべく全国行脚を始めている」(協会関係者)

 

 実際に、炭坑節まつり前日の2日、田川市の相撲茶屋で支援者たちと酒を酌み交わす姿を本誌は目撃している。いまの貴乃花にとって、急務なのが好感度アップ。

 

 真っ先に手を伸ばしたのが、テレビ業界である。事実、退職から間もない先週、日本テレビのバラエティ番組に出演した。

 

 「テレビ局からのオファーは、退職直後からいくつか来ている。ただ、局側も内心では躊躇している状況。相撲協会との関係が悪いままで去ったことを懸念する上層部が多いようです。

 

 でも2018年2月に貴乃花の独占インタビューを撮って、協会との対立に “荷担した” テレビ朝日のクルーは、今回の田川市でも貴乃花にべったりでしたよ」(民放関係者)

 

 注目のセカンドキャリアの舞台は土俵か、それともテレビの中か。

 

(週刊FLASH 2018年11月20日号)

元阪神・萩原誠「掛布の背番号」を背負うのは重すぎた

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 2018年も逸材揃いだったプロ野球ドラフト会議。東大合格より難しいといわれる世界に飛び込んだ、かつての「選ばれしエリート」である、元阪神「ドラ1」の萩原誠(45)を訪ねた

 

「6球団ぐらいのスカウトが挨拶に来ていたんですが、どの球団も2位か外れ1位と聞いていたんです。いきなり自分の名前が読み上げられたので、椅子から落ちそうになりましたよ」

 

 

 さらに、衝撃的な出来事が入団交渉の席で起こった。

 

「何度めかの交渉で、『31』という背番号を提示されたんです。もちろん、即答で断わりましたよ。阪神ファンだったらわかってもらえると思うのですが、『31』の重みというのはハンパない。

 

『まだ実績もない高卒ルーキーには荷が重すぎます』と断わったのですが、スカウトの方に『掛布(雅之)が、ぜひつけてくれと言ってるんだよ』と説得されたんです」

 

 スカウトの言葉を信じ、マスコミにも、元持ち主である掛布氏からの言葉があって、「31」をつける決断をしたと答えた。が、翌日のスポーツ紙を見て愕然としたという。

 

「1面にですよ! 掛布さんのコメントで、『私はそんなことはひと言も言ってない』と。翌日、掛布さんから謝罪の電話をもらいましたが、18歳の青年が背負うには重すぎました」

 

 入団後は、プロのレベルの高さに驚かされたという。入団した当時は新庄剛志、亀山努が注目を浴びていた。

 

「ボクがサードで、新庄さんがショートで守備練習をしていたんです。カットプレーで新庄さんからの送球が来たんですが、野球をやってて初めて逃げました。怖かったです(笑)」

 

 中学時代から肩の痛みに耐えてきた萩原は、同じ痛みに悩む野球少年を助けたいと、整体院「誠」を始めた。

 

「痛みを取るのはもちろん、最終的には痛みの出ない正しい投げ方を教えていきたいです」

 

はぎわらまこと
1973年4月6日生まれ 大阪府出身 阪神、近鉄でプレー。二軍で1993年に打点王、1996年に首位打者を獲得。プロ10年間の通算成績は124試合、打率.192、4本塁打14打点

 

(週刊FLASH 2018年11月6日号)

元大洋・銚子利夫「プロ野球から離れて2年は貯金で食ってた」

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 2018年も逸材揃いだったプロ野球ドラフト会議。東大合格より難しいといわれる世界に飛び込んだ、かつての選ばれしエリートである、元大洋「ドラ1」の銚子利夫(57)を訪ねた。

 

「1979年に近鉄からドラフト4位で指名を受けたときは、プロも考えていなかったし、田舎の18歳でしたからね。

 

 

 僕は『公務員になります』と言ったんですが、監督から『ドラフト指名された選手に野球をやめさせるわけにはいかない』と言われて、大学に行ったんです」

 

 法政大学で華々しい結果を残して、満を持してプロ入りした。

 

「当時、監督だった関根潤三さんが『長嶋さんを大洋の監督にしたい』という構想を持っていて『(長嶋さんと同じ千葉の高校の)銚子を獲って、長嶋さんを口説こうとしていた』という噂は聞いたことがあります(笑)」

 

 現役引退後は13年間、横浜での二軍コーチ、その後は編成とスカウトも務めた。

 

「48歳で野球から離れたときは、独立リーグの監督の話もあったんですが、給料的に家族を養っていけないのでお断わりしたんです。2年間は貯金で食っていた。

 

 今はまた社会人のトップチームで、守備コーチとして真剣勝負の場に携われている。本当に感謝ですね」

 

ちょうしとしお
1961年8月24日生まれ 茨城県出身 大洋、広島で活躍。守備のスペシャリストとして定評。プロ10年間の通算成績は433試合、打率.256、3本塁打60打点

 

(週刊FLASH 2018年11月6日号)

2年ぶりに関取に復帰「豊ノ島」妻と支え合った地獄の日々

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「地獄のような緊張感。引退と隣り合わせで、プライドを捨ててやってきました」

 

 2年ぶりに関取に復帰した豊ノ島(35)が、苦難の日々を振り返る。アキレス腱を断裂したのは、2016年七月場所直前の稽古中のことだった。

 

 

 怪我の連絡を受けた沙帆夫人は、すぐに長女を連れて名古屋の病院へ駆けつけた。見舞客が帰った後の病室で、家族3人で泣き明かしたという。

 

「嫁さんには『ごめんな』と言いました。手術をすれば番付は幕下に落ちる。給料が出なくなって生活が大変になる。だけど『必ず関取に戻って、この涙を嬉し涙に変えられるように頑張るから』って」(豊ノ島、以下同)

 

 手術後、懸命のリハビリの結果、一カ月半で歩けるまでに回復。夫人は今までよりも狭い、家賃の安い家への引っ越しを決行した。

 

 2016年は豊ノ島にとって激動の1年だった。一月場所は12勝3敗で殊勲賞を獲得。三月場所の番付は関脇。7月にアキレス腱を断裂し、十一月場所の番付は幕下七枚目に。三役からわずか4場所で幕下に陥落した初の力士となった。

 

 ただ、関取を12年以上続け、三役で13場所、三賞を10度受賞という実力者には、どこか慢心があった。

 

「正直、自分でも簡単に関取に戻れるんじゃないかと考えていたんです。順調にいけば2場所で十両に戻れると」

 

 十一月場所から4勝3敗、6勝1敗。三月場所は幕下二枚目で、関取復帰は目前だった。が、ここでアクシデントに見舞われる。

 

 場所前の稽古中に右ふくらはぎの肉離れを起こし、1勝5敗1休の成績に終わった。続く五月場所は、3勝4敗の負け越し。

 

「序盤で連敗したとき、嫁さんに『もう気持ちがもたない。(引退)を覚悟しておいてくれ』と言ったんです。

 

 そしたら、『覚悟は結婚したときから常々できています。でも、次の名古屋まで頑張って、そこでダメならやめればいいじゃない』と言われたんです。娘からも、『絶対お相撲やめないで』って言われました」

 

 家族の後押しもあって、2018年一月場所には幕下五枚目まで番付を戻していた。だが、再び悪夢が。取組中に左ふくらはぎの肉離れを起こし、この場所は0勝3敗4休だった。

 

「このときばかりはもう無理だと思いましたね。神様なんていねえじゃないかって。双六でいえば、上がりの直前に“振り出しに戻る”ですよ。それも二度もですから」

 

 豊ノ島の気持ちをもう一度奮い立たせたのは、この場所で優勝した栃ノ心だった。

 

「彼も怪我で幕下まで落ちている。俺と同じじゃないか、苦しくても諦めずに頑張ったんじゃないかって」

 

 三月場所の番付は、復帰後もっとも下がって幕下三十五枚目。だが、何か吹っ切れたものがあったという。

 

「決めたんです。ここから先、負け越したら引退と。そりゃ苦しいですよ。地獄のような緊張感。引退会見の夢も見たし、相撲の話をしているだけで自然と涙がこぼれてきそうになります。

 

 正直にいえば、幕下にいた2年間、最初の一年は全力でやらなくても勝てるだろうとか、みっともない負け方はしたくないとか、へんなプライドがあった。そういう気持ちを捨てました」

 

 三月場所以降は6勝、5勝、5勝。そして、幕下筆頭として迎えた九月場所を6勝1敗とし、2年ぶりの関取復帰を果たした。

 

「九月場所、4連勝した時点で花道で泣いてしまったんです。その日、嫁さんに『泣くのはまだ早い』と言われて。確かにあの時点で十両に上がれる保証はなかったですから。

 

 千秋楽の夜に、『俺一人だったらとっくにやめてた。これまでありがとう』って言ったら、今度はこっちが引くくらい大泣きされました(笑)」

 

 十一月場所は、2年ぶりに関取として迎えることになるーー。

 

(週刊FLASH 2018年11月20日号)


元ロッテ柳田将利「プロ時代は天狗に…」いまは倉庫管理

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 2018年も逸材揃いだったプロ野球ドラフト会議。東大合格より難しいといわれる世界に飛び込んだ、かつての選ばれしエリートである元ロッテ「ドラ1」の柳田将利(31)を訪ねた。

 

「1位ということでチヤホヤされて、食事に連れていってもらったり、練習後に遊びに出てたりと、甘かったですね。角ちゃん(角中勝也)なんか、夜遅くまでバットを振ってましたから」

 

 

 そのせいか目立った成績が残せず、加えて右膝を3回も手術。

 

「同期よりも注目され、天狗になっていた。ただ『1位で入ったのに……』と、周囲の視線が気になりはじめたね。あのときの自分に言ってやりたい。『プロに入ってからが勝負やぞ』と」

 

 現在は、和弘運輸で倉庫管理をまかされている。

 

「フォークリフトでトラックに荷物を載せたりしています。野球しかやってこなくて、頭の中は空間だらけ(笑)。計算から何からやることが多いので、詰めるものがたくさんあって、ちょうどいいです(笑)」

 

やなぎだまさとし
1987年9月2日生まれ 大阪府出身 二刀流を期待されるも、投手として結果が残せず、3年めに野手転向。プロ通算3年間で二軍1試合のみで一軍出場なし

 

(週刊FLASH 2018年11月6日号)

元横浜「小桧山雅仁」TBSラジオに転職し、営業部長に出世

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 2018年も逸材揃いだったプロ野球ドラフト会議。東大合格より難しいといわれる世界に飛び込んだ、かつての選ばれしエリートである元横浜「ドラ1」の小桧山雅仁(49)を訪ねた。

 

「新人王、タイトルも獲りたかった。二桁勝利も挙げたかったし、名球界入りもしたかった」

 

 

 野球人生やり残したことばかりだという現役時代を懐かしむ。

 

「プロでやっていける自信はありましたが、投手のレベルは想像以上に高かった。技術や体力面も欠けていたと思います」

 

 契約金は1億2000万円、年俸1000万円だった(金額は推定)。

 

「3LDKのマンションを買った以外、何に使ったか覚えてません。半分以上を税金で差し引かれ、ほとんど残ってません」

 

 引退後、縁あってマスコミ業界に転職。現在、TBSラジオの営業部署で担当部長として、ラジオ番組やイベントの企画立案・営業に従事して多忙な日々を送る。

 

「うちは、今年からプロ野球中継がなくなりましたが、知的好奇心をくすぐる番組がたくさんあるので、ぜひ聴いてください」

 

こひやままさひと
1969年5月7日生まれ 神奈川県出身 1年めから44試合に登板するなど大車輪の活躍を見せた。プロ9年間の通算成績は122試合9勝14敗4S、防御率4.30

 

(週刊FLASH 2018年11月6日号)

元巨人の三野勝大は接骨院経営中「将来は球団でトレーナーに」

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 2018年も逸材揃いだったプロ野球ドラフト会議。東大合格より難しいといわれる世界に飛び込んだ、かつての選ばれしエリートである元・巨人の「ドラ1」三野勝大(47)を訪ねた。

 

 契約金は1億5000万円、年俸1200万円で入団。

 

 

「まあ、半分以上が税金ですから。半分は両親に渡し、残りは将来のために貯金しました」

 

 人気チームへの入団。当然プレッシャーは感じた。打ち克つには練習しかなかったという。

 

「活躍できなかったのは実力がなかったから。怪我もありましたが、選手は皆どこか痛めている。それは理由になりません」

 

 引退後は資格取得のため、専門学校に4年間通った。現在、接骨院の経営とともに、町田で「アルファ医療福祉専門学校」の講師を務めている。

 

「けっこうお金はかかったし、契約金を貯金しておいてよかった(笑)。この職業を選んだ理由は、現役時代に怪我が多かったことがあります。

 

 当時はいろんな医師やトレーナーにお世話になったし、感謝の気持ちがあった。それで選手の体をケアしたいと思ったこともひとつ。元選手にこの職種が多いのも、同じ気持ちからじゃないでしょうか

 

 将来的には球団のトレーナーをやりたい気持ちはあります。 巨人からの話? お伺いは立てているんですけどね(笑)」

みのかつひろ
1971年7月6日生まれ 香川県出身 巨人、横浜でプレー。大学時は全日本入りも入団3年は一軍登板なし。プロ7年間の通算成績は5試合0勝0敗、防御率7.50

 

(週刊FLASH 2018年11月6日号)

新人賞を獲った「大谷翔平」秘策は高タンパクの自炊生活

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BBWAA公式サイトより

 

 11月13日(日本時間)、BBWAA(全米野球記者協会)の公式サイトで、ア・リーグ最優秀新人賞(新人王)に選ばれた、エンゼルスの大谷翔平。

 

 大谷は合計137票を獲得。2位のアンドゥハー(ヤンキース)が89票だったため、大差をつけての新人王獲得だった。

 

 

 日本人選手では、1995年の野茂英雄投手(ドジャース)、2000年の佐々木主浩投手(マリナーズ)、2001年のイチロー外野手(マリナーズ)以来、17年ぶり4人目の快挙だ。

 

 慣れない異国の地で、堂々の成績を残した大谷。その活躍を支えたのは、丁寧な自炊生活だ。

 

 大谷の食事面をサポートしているのは、管理栄養士の大前恵さん。大前さんは、『週刊朝日』2018年5月25日号でこう話している。

 

「大谷選手は疑問に思ったことがあればきちんと理解しようとする姿勢が強い。栄養に関しても同様で、食事に向き合う姿勢はあくまで『プレーに必要な身体の材料を入れる』という感覚。『わーい! ご飯だ!』という感じではないんです。

 

 だから気分に左右されず、どんなときでも、今の自分に必要なものを必要な分だけとる。結果を出す人には理由があるということです」

 

 春季キャンプでは、大前さんが料理をしたことがない大谷に玉ねぎのみじん切りから教え、さらにオムライスやハンバーグの調理実習も実施。大谷は、シーズン中にオムライスを自ら作り、「料理男子」として成長した。

 

 岩手日報(2018年11月9日付)によれば、身長193cm、体重92kgの大谷が筋肉を維持するには、1食あたり60gのタンパク質が必要だという。栄養を考えて、大谷は白米と玄米の割合をリクエストしたり、適切な肉を選んでいるそうだ。

 

 来シーズンは打者として専念する大谷。料理の腕がさらに向上すれば、プレッシャーのかかる「2年目のジンクス」を容易に打ち破ることが可能だろう。

無敗の王者「メイウェザー」試合拒否でフジテレビが悲鳴

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「残念な東京への旅だった」

 

 この言葉とともに、自身のSNSに総合格闘技「RIZIN」への批判を綴ったのは、ボクシング元5階級王者のフロイド・メイウェザー・ジュニア(41)だ。

 

 

 大晦日のRIZINでのキックボクサー・那須川天心(20)との試合について、「エキシビションマッチと聞かされていたため中止を求める」と宣言したのだ。

 

 投稿3日前の11月5日に発表された直後から、「世紀の一戦」は大きな話題になった。メイウェザーは「50戦無敗」を売りに、巨額のファイトマネーを引きずり出してきた過去から、「マネー(金の亡者)」と呼ばれる。

 

 2015年のボクシング元6階級王者マニー・パッキャオとの対戦では約270億円、2017年のUFC王者コナー・マクレガーとの対戦では約300億円を手にした。私生活も派手で、かつては札束の上で寝ていたという逸話を持つ。

 

 しかし、ボクシング誌記者が意外な現状を語る。

 

「じつは、彼のフトコロ事情は苦しい。9月に来日した際には、SPのような取り巻きを30人も連れてきた。そんな大人数を連れ、プライベートジェットで世界を飛び回っているのだから、維持費は馬鹿にならない。かつては税金を滞納していたし、ボクシング選手としてはほぼ引退状態。

 

 今はTMTという会社を立ち上げて、アパレルビジネスをおこなっている。だが、それもアメリカでは頭打ちの状況。ビジネス展開のために、メイウェザーは日本での露出を狙っていた。そこで白羽の矢が立ったのが、RIZINだった」

 

 ゴールデン帯に生中継をするなど、フジテレビがバックアップしてきたRIZIN。しかし、2015年の立ち上げ以来、視聴率は伸び悩んでいた。

 

「RIZINはフジから、生中継の打ち切りをちらつかされている。9月の大会では、視聴率9~10パーセントというノルマを課せられ、年末のメインカードになる予定だった那須川と総合格闘家の堀口恭司との一戦を前倒ししました。

 

 その大会は瞬間最高視聴率9パーセントを記録し、及第点に。でも、年末の目玉を失って……。そんな折、メイウェザー側から打診があったんです」(格闘技ライター)

 

 渡りに船で実現した一戦には、フジ局内でも大反響が。

 

「対戦が決定したときは、『マジかよ』と局内でも驚きの声が上がりました。でも、“あの” メイウェザーが相手ですからね……」(フジテレビ関係者)

 

 あの、と前置きがあるのは、彼に「悪癖」があるからだ。

 

「パッキャオとの一戦では、『やる』『やらない』を繰り返し、実現までに5年かかってます。そうやって彼はファイトマネーを吊り上げてきた。

 

 ただ、今回は15億円プラス収益分配というかたちで合意しています。というのも、RIZINも那須川もプロボクシングのライセンスがないので、純然たるボクシングルールの試合はできません。

 

 そうなると、変則ルールのエキシビションしかない。RIZINもフジもできる範囲で、いかに『真剣勝負』っぽく見せられるかを考えていました」(前出・格闘技ライター)

 

 運営側の勇み足も、メイウェザーに不安を与えた。

 

「RIZINの榊原信行実行委員長が会見で、『短いラウンドになるかもしれないが、本当の真剣勝負』などと煽ったせいで、『公式な試合』という誤解がメイウェザーに生まれた。

 

 公式な試合なら、彼は15億円では納得しないし、ボクシングからかけ離れたルールになれば負けるリスクも高まる。『無敗』の価値を彼自身がいちばん知っている。

 

 メイウェザーは、この後パッキャオとの再戦でひと儲けしようと目論んでいるし、カネもルールも、足元を見られた要求が突きつけられるはずだ」(スポーツ紙記者)

 

 RIZINは今後について、「現在、先方へ事実確認をしております」の一点張り。知らぬところで “フラれた” 那須川は、9日に公開練習を実施。メイウェザー戦について聞かれるとこう答えた。

 

「本当になくなったのかまだ信じられない。そういうことをする人って有名らしいので」

 

 年末のビッグマッチ実現に向けて、狡猾な「金の亡者」と、金銭闘争の第1ラウンドが始まった。

 

(週刊FLASH 2018年11月27日号)

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