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新日本プロレスG1覇者「飯伏幸太」次なる目標はダブル戴冠

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「じつはリーグ戦の初戦で足首をやってしまって、試合に出られる状態ではなかったんです。もう靱帯が伸び切って、足首がはずれていたんで……。リーグ戦の決勝と、優勝者決定戦は、痛み止めを打って試合に臨んでました。

 

 でも、(足首の故障で)結果的に飛べなくなったことで、見せる要素を排除した、『勝つためのスタイル』にチェンジできたのがよかったのかもしれません」

 

 

 チケットの「完売御礼」が続く、新日本プロレスの最強レスラーを決めるビッグイベント「G1クライマックス」。8月に令和初の覇者となったのが、飯伏幸太(37)選手。この優勝によって名実ともにトップ選手となった。

 

 飯伏選手の次なる目標のひとつは、新日本の象徴「IWGPヘビー級」のベルトだ。さらに、ほかにも狙っている記録があるという。

 

「IWGPヘビーはもちろん目標ですけど、僕はまだ誰も成し遂げていない、インターコンチネンタル王座とIWGPの『ダブル戴冠』を目指したいんですよ。

 

 来年1月4日、5日は初めての東京ドーム2デイズなんで、その初めてのときに、『初』を成し遂げたいですね。僕はなんでも『初』が大好きなんで」

(週刊FLASH 2019年10月22・29日号)


渋野日向子に、レジェンド青木功が「このまま強気で行け」

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「みなさん、そう思っているかもしれないけど、(目標は)賞金女王です」

 

「東海クラシック」の大逆転優勝で賞金1億円を突破した際に口にした目標に、渋野日向子(20)は着実に近づいている。

 

 スターの誕生に沸く、女子ゴルフ界。ふだん中年男性が多いツアー会場では、思わぬ “シブコフィーバー” も。

 

 

「じつは、子供のファンがとにかく多いんです。『日向子ちゃんあげる!』と、ホールの移動中に声をかけられ、似顔絵や折り紙、手紙を手渡されている。渋野も『ありがとう』と笑顔で子供たちの頭をなで、すべてキャディバッグにしまうので、バッグがパンパンになっています。そこも彼女らしい」(ゴルフ記者)

 

 そんな彼女の “強さの秘密” を2人のレジェンドに聞いた。

 

「いきなりメジャー(全英女子)を勝てたのも、“惹きつける” という彼女ならではの力があったから」と話すのは、ツアー通算51勝の青木功氏(77)だ。

 

「本来ゴルフは、ひとりで種をまいて、水をやって育てて、刈り取る……みたいなスポーツ。ところが彼女は、笑顔やハイタッチで自然にまわりを味方にして、自分の力以上を発揮できる環境を作った。それが、いちばんの違いだと思います。自然にこれができる選手は、今までいませんでした」

 

 ツアー18勝で、東京五輪のゴルフ日本代表女子コーチの服部道子氏(51)も、同意見だ。

 

「彼女の親しみやすい笑顔、一挙手一投足が、“垣根” を取り払ってくれた。ゴルフファンの裾野が広がりました」

 

 いまや、ゴルフファンだけでなく日本中が「シブコファン」。そんな彼女の強さとは?

 

「プレッシャーがかかる状況でも、パットもショットも振り抜ける『心の強さ』。それに、戦う舞台が大きくなればなるほど集中力が高まり、“自分のもの” にできる点ですね。

 

 オン、オフの切り替えがうまく、打つときにグッと集中できるので、エネルギーが残って、後半9ホールでも力が発揮できるんだと思います」(服部氏)

 

 彼女の強さには、中学時代にしていたソフトボールも影響しているようだ。

 

「『一球入魂で集中する』というソフトボールでのピッチャー経験は、ゴルフと通じるものがあるね」とは青木氏。「スナップをきかせていたからか、ほかの選手に比べて、手首が強い」(ゴルフ記者)のも、強さの一因になっている。

 

 2019年、喜寿を迎えた “世界のAOKI” に、「もし渋野が壁にぶつかったら?」と、アドバイスを求めると……。

 

「強い選手には、壁を感じない選手もいる。僕は感じなかったですから(笑)。渋野選手も、いまの『怖いものを知らない強気なゴルフ』で勝てているんだから、そのままでいい」

 

 こう一刀両断。“怖さを知らない” という点では、青木氏と相通ずるものがあるというわけだ。最後に、大レジェンドからこんな忠告をいただいた。

 

「長く、渋野のプレーを観たいでしょ? なら、ゴルフに集中できる環境を作ってあげないと。これからはゴルフ以外の仕事も増えると思う。ゴルフに集中できるように、彼女のまわりにいる人たちが、どうマネジメントしていくかが大事!」

 

(週刊FLASH 2019年10月22・29日号)

専門家が分析する「高橋礼」サブマリン投法の秘密を大解剖

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 140kmを超えるストレートを最大の武器とする、本格派のアンダースロー投手が登場した――。福岡ソフトバンクホークスに入団2年めとなる高橋礼投手(23)は、今季は開幕ローテーション入りを果たし、12勝6敗(チーム2位)、勝率6割6分7厘(パ・リーグ2位)と大活躍。

 

 令和のサブマリン右腕を徹底検証するべく、メジャーリーグでのトレーナー経験を持つスポーツ科学の専門家・石橋秀幸氏(フェアプレイ・データ)に、高橋投手の投球動作を分析してもらった。

 

 

「オーバースローで投げる田中将大、大谷翔平、ダルビッシュ有と、高橋投手の投球動作を比較しました。

 

 高橋投手は、重力に逆らって腕を振り上げるわけですが、大きく胸を開いてから腕を振る速度が、3人のメジャーリーガーとほぼ同じ(0.07秒)。腕を加速させる使い方が上手投げの速球派の投手と同じだから、速い球が投げられるのだと思います。

 

 また、彼のフォームの特徴のひとつが、トップでの手首の角度。腕を振り上げたとき、手の甲がショート側を向いています。

 

 多くの投手は、手の甲が捕手側かセンター側のどちらかを向くものですが、高橋投手はダルビッシュ投手によく似ていて、トップの位置で手首がやや斜めになります。アンダースローですが、自然な動きをしています。

 

 フォームを固めることが難しいアンダースローですが、高橋投手は、左足を上げる高さ、足の着地点など、一連の動作が安定しています。股関節の柔軟性で対応しているんですね。

 

 投球動作が大きいので体力を消耗しますが、それを補う下半身の力と筋力があります。とても器用な選手ですね」

 

 冒頭の図では、投球フォームを3つの動作に分けて、複数回計測した平均値のデータを示した。動きにほぼ誤差がないことがわかる。「コッキング」とは、胸を開いて腕を後ろに引く動作で、「アクセレーション」は加速期を表わす。

 

写真・谷口由記

 

(週刊FLASH 2019年10月22・29日号)

千賀滉大投手、令和初のノーヒットノーランを振り返る

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「回が進むにつれ、ベンチで話しかけてくる人が来なくなった。おもしろかったです」

 

 9月6日の福岡ソフトバンク対千葉ロッテ戦。ソフトバンクのナインが異常な緊張感でプレーするなか、プロ野球史上80人めのノーヒットノーランを達成した千賀滉大は、冷静に戦況を分析していた。

 

 

「5回にノーヒットだと気づいたのですが、1点差で一発が出たら同点だったので、そっちを意識していました」

 

 8回を迎えると、「初めて意識をして」ギアを上げた。

 

「ここから本気だと。さらに話しかけてくる選手はいなくなったけど、(捕手の甲斐)拓也だけは隣にいてくれました」

 

 2人は同じ、育成出身。この日の決勝打を放ったのも甲斐だった。2人は運命に導かれていたのか、試合当日の朝、甲斐から「今日はお前のために頑張るから、お前も俺のために頑張れ」というLINEが来ていたという。ここ数試合は、互いに不甲斐ない内容だったからだ。

 

「単純に『令和初』だったことは嬉しい。時代の始まりですから。でも危なかった。1週間後には、中日の大野雄大さんにやられていたんで(笑)」

 

(週刊FLASH 2019年10月22・29日号)

朝乃山、優勝杯を手渡されたトランプ大統領を振り返る

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 米国のトランプ大統領の観戦で話題になった5月場所。優勝したのは平幕の朝乃山だった。表彰式では、直接トロフィを授与された。

 

「デカかったです。僕と一緒か、いや、もっと大きいかも。だって、トランプさんって元プロレスラーなんですよね。え、違うんですか!?」

 

 

 ちなみに朝乃山は身長188cm、トランプ氏は190cm。2007年には、トランプ氏が米国最大のプロレス団体「WWE」のリングに上がったこともあり、それを見ての勘違いだったようだ。

 

 朝乃山は9月場所も終盤まで優勝争いに加わり、金星を含む10勝を挙げた。11月場所に向けての抱負を聞くと、「まずは勝ち越し。しっかり稽古に精進して頑張ります」と謙虚な答え。

 

 玄人好みの本格的な四つ相撲で、「令和初の横綱」を目指してほしい。

 

(週刊FLASH 2019年10月22・29日号)

佐々木朗希はロッテへ…いま「ドラフトの歴史」を振り返る

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佐々木朗希

 

 10月17日、プロ野球ドラフト会議が開かれた。

 注目選手は、U18侍ジャパン合宿で163km(非公式ながら高校史上最速)をマークした佐々木朗希(大船渡)。日本ハムが早くから1位指名を明言していた。パ・リーグ4球団(日本ハム、ロッテ、楽天、西武)が競合し、ロッテが交渉権を獲得した。

 

 佐々木に続いて、競合の可能性があったのが、完成度ナンバーワンと呼ばれた奥川恭伸(星稜)だ。ヤクルト、阪神、巨人の3球団が競合し、ヤクルトが交渉権を獲得した。

 

 今年は、以下のような結果になった。

・ヤクルト 奥川恭伸(星稜)
・中日 石川昂弥(東邦高)
・広島 森下暢仁(明大)
・阪神 西純矢(創志学園高)
・DeNA 森敬斗(桐蔭学園高)
・巨人 堀田賢慎(青森山田高)
・オリックス 宮城大弥(興南高)
・日本ハム 河野竜生(JFE西日本)
・ロッテ 佐々木朗希(大船渡高)
・楽天 小深田大翔(大阪ガス)
・ソフトバンク 佐藤直樹(JR西日本)
・西武 宮川哲(東芝)

 

 2018年に引退した選手は、日本野球機構の調べでは136名で、多くが30歳手前でプロ野球の世界から去る。さまざまなドラマを見せてきたドラフトの歴史を、振り返ってみよう。

 

【日本プロ野球ドラフトの歴史】

 

●第21回(1985年)
 PL学園高校で甲子園を沸かせた桑田真澄と清原和博の「KKコンビ」。清原は読売ジャイアンツの入団を希望し、桑田は早稲田大学の進学を表明していたが、読売ジャイアンツは桑田を1位指名。大学進学せず入団する。清原は6球団から指名を受けたものの、巨人から指名されず、ドラフト後の記者会見で涙を流す。

 

●第22回(1986年)
 史上初12球団すべてがドラフト1位に投手を指名する。

 

●第23回(1987年)
 長嶋茂雄の長男・長嶋一茂(立大)がヤクルトスワローズと大洋ホエールズに1位指名を受け、ヤクルトが交渉権を獲得。

 

●第24回(1988年)
 福岡ダイエーホークスは1位、2位、3位、6位の指名が重複し、抽選にすべて失敗。

 

●第25回(1989年)
 野茂英雄が史上最多の8球団から指名を受け近鉄バファローズに入団。契約金は史上初の1億2000万円。契約時に「トルネード」投球を変更しないという条項がもりこまれた。

 

●第26回(1990年)
 小池秀郎が最多タイ8球団から指名を受けロッテオリオンズが交渉権を獲得するも指名を拒否。松下電器野球部でプレー。

 

●第27回(1991年)
 オリックスブルーウェーブが投手としてドラフト4位で鈴木一朗(イチロー)を指名。その他にも田口壮、中村紀洋(近鉄)、石井一久(ヤクルト)、斎藤隆(横浜)など、のちのMLB経験者が指名される。

 

●第28回(1992年)
 甲子園で5打席連続敬遠を受けた星稜高校の松井秀喜が4球団競合の末、読売ジャイアンツが交渉権獲得。当時読売ジャイアンツ監督の長嶋茂雄自らくじを引き、交渉権獲得とわかり、大きくガッツポーズ。当時、松井は阪神タイガース入りを希望したが、長嶋から直接電話を受け感動し、読売ジャイアンツに入団。

 

●第29回(1993年)
 大学生・社会人の選手で1球団につき2名までの対象選手が、自ら希望するチームを宣言することができる「逆指名制度」が認められる。

 

●第30回(1994年)
 福岡ダイエーホークスが駒沢大学進学予定の城島健司を1位で強行指名。これをきっかけにプロ入り拒否をした選手はドラフト会議で指名できないというルールが定められる。

 

●第31回(1995年)
 福留孝介が高校生史上最多の7球団から指名され、近鉄バファローズが交渉権を獲得するも入団を拒否。日本生命に進む。

 

●第32回(1996年)
 アトランタオリンピックで活躍した井口資仁、松中信彦、谷佳知らが上位指名をされる。

 

●第33回(1997年)
 高橋由伸が読売ジャイアンツを1位で逆指名。千葉ロッテマリーンズファンが地元出身の高橋を逆指名するようにと署名運動が起きる。

 

●第34回(1998年)
「平成の怪物」横浜高校の松坂大輔が、日本ハムファイターズと横浜ベイスターズ、西武ライオンズに1位指名され、西武ライオンズが交渉権を獲得し入団。当時は横浜ベイスターズが意中の球団だった。MLBでプレイした上原浩治、福留孝介、2018年日本プロ野球初となる1000試合登板を達成した岩瀬仁紀が指名される。

 

●第35回(1999年)
 國學院久我山高の河内貴哉が広島東洋カープに1位指名を受け入団。高校生として球団史上最高の1億円で契約。

 

●第36回(2000年)
 横浜ベイスターズ以外の11球団が投手と捕手を1位に指名。内川聖一がベイスターズに1位指名され、20世紀最後のドラフト外野手1位になる。

 

●第37回(2001年)
 甲子園で最速154キロを記録した寺原隼人が4球団競合の末、福岡ダイエーホークスが交渉権獲得。「逆指名制度」からドラフト前に大学生・社会人を2名以内獲得できる「自由獲得枠制度」に変更される。

 

●第38回(2002年)
「松坂世代」の大学卒業にともない、村田修一、和田毅、新垣渚が上位指名を受ける。

 

●第39回(2003年)
 全球団競合なしで無抽選となる。

 

●第40回(2004年)
 東北高校のダルビッシュ有が北海道日本ハムファイターズに1位指名される。
 明治大学の一場靖弘に対し、読売ジャイアンツが「栄養費」を名目に200万を授受していたことが発覚。結局一場は新規球団の東北楽天ゴールデンイーグルスが希望入団枠制度で獲得。
「自由獲得枠制度」が入団枠を1人に改正し「希望入団枠制度」に変更される。
 辻本賢人がドラフト史上最年少15歳で阪神タイガースに指名される。

 

●第41回(2005年)
「高校生」と「大学生・社会人」に分割され別々の日に開催される。
 大阪桐蔭の辻内崇伸と福岡第一高校の陽岱鋼の交渉権の抽選結果が誤って発表される。原因は当たりくじがNPBの印と「交渉権獲得」と書かれ、ハズレにはNPBの印だけが押されていたがNPBの印が当りだと勘違いしたため。

 

●第42回(2006年)
 駒大苫小牧高校の田中将大が4球団競合の末楽天ゴールデンイーグルスに入団。11球団競合するなかで広島東洋カープがPL学園高校の前田健太を競合なしで1位指名。

 

●第43回(2007年)
 日本ハムファイターズが大阪桐蔭高校の中田翔を1位指名し入団。西武ライオンズが2004年から2005年にかけてアマチュア2選手に対し不適切な金銭の授受が発覚。これを受け同年の高校生ドラフトで上位2名分の指名権剥奪を受ける。
「希望入団枠制度」が撤廃される。

 

●第44回(2008年)
 新日本石油ENEOSに所属していた田澤純一がMLB挑戦を表明。プロ野球12球団にドラフトを見送りを求める文書が送られた。同年、田澤はボストン・レッドソックスに3年総額400万ドル(当時約3億8000万円で契約。
「高校生」と「大学生・社会人」のドラフトが再統合される。

 

●第45回(2009年)
 プロ野球12球団とMLB8球団とも面談した花巻東高校の菊池雄星がドラフト1位で埼玉西武ライオンズに入団。寮に入る際は50冊以上の本を持ち込む。

 

●第46回(2010年)
 2006年甲子園を沸かせた「ハンカチ王子」こと斎藤佑樹が4球団争奪の末、北海道日本ハムファイターズに入団。新人にもかかわらず本拠地の札幌ドームで入団会見を行う。

 

●第47回(2011年)
 東海大の菅野智之が北海道日本ハムファイターズと読売ジャイアンツが指名され、北海道日本ハムファイターズが交渉権を獲得する。しかし、叔父にあたる原辰徳が当時監督をしていた読売ジャイアンツを希望していため入団を拒否。1年間野球浪人を経て翌年読売ジャイアンツから1位指名を受ける

 

●第48回(2012年)
 花巻東高校の大谷翔平を北海道日本ハムファイターズが指名権を獲得。MLB挑戦を表明していた大谷に「大谷翔平君 夢への道しるべ~日本スポーツにおける若年期海外進出の考察~」と題した資料を提示。日本のプロ野球からのほうがMLB挑戦がしやすいことを説明。「投手」と「野手」の二刀流で起用するプランを提示し入団。

 

●第49回(2013年)
 桐光学園高校の松井裕樹が4球団競合の末、楽天ゴールデンイーグルスに入団。

 

●第50回(2014年)
 京都大学の田中英祐が千葉ロッテマリーンズから2巡目で指名され入団。京都大学では工業基礎科学を専攻。卒業論文のテーマは「SFA(表面力測定装置)における水和構造の逆計算理論」。

 

●第51回(2015年)
 東京ヤクルトスワローズと阪神タイガースが明治大学の髙山俊を指名し抽選に。その際ヤクルトの真中満監督が抽選結果を勘違いしガッツポーズ。抽選結果が修正され交渉権は阪神へ。金本知憲監督がインタビューで「ビデオ判定でホームランが覆った心境」と答える。

 

●第52回(2016年)
 前年の交渉権訂正にともない、当たりの場合には「交渉権獲得」の印、ハズレは白紙になった。

 

●第53回(2017年)
 早稲田実業高校の清宮幸太郎が高校生最多タイとなる7球団から指名を受け、北海道日本ハムファイターズが交渉権を獲得。交渉権を引いた木田優夫GM補佐はドラフト前にお笑い芸人・明石家さんまから「左手で行け」とアドバイスされた。

 

●第54回(2018年)
 最注目選手は、第100回全国高校野球で優勝した大阪桐蔭高校の野手・根尾昂。中日、日本ハム、巨人、ヤクルトの4球団が競合し、中日が交渉権を獲得。また、準優勝し「金足農フィーバー」を巻き起こした秋田県立金足農業高校のピッチャー・吉田輝星は日本ハムが獲得した。

スポニチ記者・万哲が指南「10.20菊花賞」穴馬はコイツだ!

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2018年の菊花賞

 

 秋の競馬は「GI戦線」真っ盛り! 10月20日に京都競馬場でおこなわれる伝統のGI「第80回 菊花賞(芝3000m)」をガイドしてくれるのは、『スポーツニッポン』の「万哲」こと小田哲也記者。万馬券ハンターが、“激走パターン” から見つけた穴馬を指名する!!

 ダービー馬が引退し、「サートゥルナーリア」「ダノンキングリー」も別路線へ。ここは「ヴェロックス(栗東・中内田/父・ジャスタウェイ)」が圧倒的人気を集めそうだ。

 

 

 しかし、前哨戦の「神戸新聞杯」は、超スローペースの特殊なレースで、本番に直結するとは思えない。いい意味でも悪い意味でも「相手なり」に走る馬。積極的に買いたくなる馬ではない。

 

ユニコーンライオン

 

 2019年の菊花賞は、穴党の腕が鳴るレースといえる。神戸新聞杯組で穴の魅力があるのは、5着の「ユニコーンライオン(栗東・矢作/父・NoNay Never)」。超スローの瞬発力勝負では切れ負けしたが、本質的にはスタミナタイプ。前の位置で競馬できる点も、菊花賞向き。

 

 函館で2連勝し、神戸新聞杯で負けたことで人気の盲点になりそうだが、これは菊花賞の典型的な穴馬パターン。かつてのヒシミラクルを彷彿とさせる。

 

ホウオウサーベル

 

 ところで、ここ2年連続で勝ち馬が菊花賞で活躍し注目されているのが、8月新潟の「阿賀野川特別(芝2200m)」。2019年ここを勝ってきたのが、「ホウオウサーベル(美浦・奥村)」だ。父は、長距離に強いハーツクライ。

 

 鞍上は、名ステイヤー(スタミナ豊富で、長距離レースの得意な馬)の「マンハッタンカフェ」や「フェノーメノ」とコンビを組み、淀の長丁場を知り尽くしている蛯名正義騎手という点も心強い。「古馬2勝クラスで通用すれば、菊花賞で勝ち負けできる」というのは常識。期待は大きい。

 

ヒシゲッコウ

 

 一方、函館、札幌で連勝してきたのが「ヒシゲッコウ(美浦・堀/父・ルーラーシップ)」。とくに7月の阿寒湖特別(札幌・芝2600メートル)の勝ち方は圧巻。かつてこのレースを勝った「マンハッタンカフェ」を彷彿とさせる。兄はマイラー(1マイル=1600m前後の距離を得意とする馬)の「ステルヴィオ」だが、父が代わって長距離もまったく問題なし。

 

 ほかには「セントライト記念」2着の「サトノルークス(栗東・池江/父・ディープインパクト)」、神戸新聞杯3着の「ワールドプレミア(栗東・友道/父・ディープインパクト)」もチェックしておきたい。

 

【菊花賞の穴馬激走パターン】
(1)夏に頭角を現わした「上がり馬」(「ゴールドアクター」「ユーキャンスマイル」など)
(2)夏活躍、神戸新聞杯惜敗で人気の盲点(「ビッグウィーク」「サトノノブレス」など)
(3)春も活躍、距離延長で本領発揮(「レインボーライン」「クリンチャー」など)

 次のページでは、過去の菊花賞での穴馬の活躍を、データで紹介する。

駒田徳広が明かす「日本シリーズ」バ〜カ発言の真偽は…

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1989年先制本塁打時の「歓喜のバンザイ」を再現

 

 100試合以上おこなわれるペナントレースとは違い、負けたら終わり、甲子園さながらに本気でぶつかる「日本シリーズ」が、今年も10月19日からスタートする。

 

 日本一を争う場では、「最高峰の仕事」が勝負の行方を左右してきた。その舞台裏にあった「ドラマ」を聞くべく、元巨人の駒田徳広さん(57)を訪ねた。

 

 

 1989年、巨人に3連勝した近鉄・加藤哲郎の「(巨人は)たいしたことがなかったですね」は球史に残る「舌禍事件」だ。これに奮起した巨人がその後3連勝。さらなるドラマは最終戦に。

 

 駒田さんが2回表に先制本塁打を放ち、三塁を回る際に、マウンドの加藤に「バ〜カ!」と叫んだように見えた。巨人が第7戦に勝利し、大逆転で日本一となったが、それ以上に「例の場面」が、ファンの記憶に強く刻まれることになった。

 

「巨人は3連敗していたし、『たいしたことない』と言われても仕方なかった。まあ、いろいろ書かれたり、言われたのは、マスコミが盛り上げようと思ったからでしょう。

 

 実際のところ、加藤君の発言で、チームの雰囲気がガラリと変わったということは、なかったですね。気合を入れれば勝てるほど、プロの世界は甘くありません。

 

 でも、逆襲のひとつのきっかけにはなったのでしょう。土壇場に追い込まれていたし、『いかに勝つか』を考えていました」

 

「バ〜カ!」発言を問うと、「言いました」と即答。

 

「思ったことを言っても、僕はいいと思っています。自己責任でね。でも、プロならファイティングポーズを取るのは当たり前のこと。だから、あのときもいまも、加藤君に何か思うところは一切ないです。

 

 日本シリーズはやはり別格。ペナントレースとは全然違った。試合前の『君が代』を聞いたとき、奮い立つものがあったことを覚えています」

 

 駒田さんはそのとき、シリーズ打率.522でMVPにも輝いた。引退後は2016年から2019年9月まで、「高知ファイティングドッグス」の監督を務めていた。現在は野球解説者として活動中だ。

 

こまだのりひろ
1962年9月14日生まれ 奈良県出身 ドラフト2位で1981年に巨人入団。1983年、史上初となるプロ初打席で満塁本塁打。2000年に2000本安打を達成した。ゴールデングラブ賞は、一塁手としては史上最多の10回受賞

 

(FLASH DIAMOND 2019年11月15日増刊号)


前田日明「1982年、俺はロンドンで銀行員のOLを彼女にした…」

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 1980年代の昭和から平成に変わるころ、UWFブームが全国を席巻した。なかでも、格闘王と呼ばれた前田日明は、時代を牽引する最強のプロレスラーとして、多くの人々から支持されていた。

 

 最近のバラエティ番組では「滑舌が悪い」などといじられることもあるが、実は英語の発声はとてもクリアだ。それも当然である。なぜなら、1982年にイギリス留学をしていたのだから。

 

 

 若手芸人の登竜門番組『東京オーディション(仮)』(TOKYO MX)にゲスト出演した前田に、40年ほど前のイギリス留学の話を聞いた。

 

「下宿先は、ロンドンの南にあるウェスト・ダルウィッチという場所。世話をしてくれたレスラーが経営するパブの3階に泊めてもらっていたんだ。そこには、日本人がまったくいなかったね。

 

 しかも俺、『This is a pen.』くらいしか英語が話せなかった(笑)。とくに困ったのは、買い物するとき。晩飯にステーキ食おうと肉屋に行ったんだけど、なんて言えばオーダーできるのかわからなかった。

 

 だから、まわりをじーっと観察するわけ。そうすると、みんなが『Can I have ~?』って言っているのが聞こえてきた。なるほど、と思った俺は商品を指差しながら『Can I have this?』って。その後も、いちいち言いながら買い物していたよ」

 

 3カ月もすると、自分はしゃべれないが、相手が言っていることはなんとなくわかるようになってきた。相手のイギリス人も、話せないのを察して、簡単な英語で話してくれたという。

 

「彼らの国は、世界各国に植民地を持っていたから、外国人の扱いがうまいのかもしれないね。そこに住む人たちの人柄もよかった。日本でいうと関西人に近いフランクさがあったよ。

 

 晴れた日に道を歩いていたら、知らない人に『What a sunny day today!Don’t you?(なんていい天気なんだろ。そう思わない?)』と、声をかけられることなんて日常茶飯事。

 

 レストランで食器をガチャガチャさせながら昼飯を食べていたら、初対面のおばあちゃんに『うるさい!』って怒られてさ、『I’m sorry.』と謝ったら、『こうやって食べるのよ』って手取り足取り教えてくれたこともあったね」

 

 楽しい留学生活で、ガールフレンドはいたのだろうか。

 

「そりゃ、いましたよ。でも、当初は彼女を作る気なんてさらさらなかった。留学して半年くらい経ったころ、面倒を見てくれたウェイン・ブリッジというレスラーが俺に言ったんだよ。『23歳のヤングレスラーが、わざわざイギリスまで来ているのに、ガールフレンドのひとりも作らないってどういうことだよ?』って。

 

 俺は『修業のために来ているんだし、帰国が決まったら別れないといけないと思うと、相手がかわいそうだ』と返したんだ。そしたら彼が『それが人生なんだよ』って言うんだよ。別れるかもしれないけれど、遠く離れても関係が続く可能性もある。さらには結婚するかもしれない。だから、余計なことを心配するなって言ってくれたんだ。

 

 意を決して女性を紹介してもらうよう頼むが、大きな失敗をした。

 

「モデルみたいな子や舞台女優の子なんかを次々に連れてくるのさ。みんなキレイだから、俺は内心喜んでるんだけど、恥ずかしいから素直に『あの子がいい』とは言えない。

 

 その姿を見たウェインは、気に入らなかったと判断して女の子を帰しちゃうの。あれはもったいなかったな(笑)。最終的には『恥はかき捨て』とばかり、気に入った子と付き合えたけどね」

 

 彼女はイギリス大手銀行ロイズのOLだった。付き合っているとき、文化の違いでちょっとしたトラブルがあった。

 

「何気なく料理を作ってほしいと言ったら、『なんで私がそんなことしなきゃならないの!』って怒りだして、驚いたな。日本だと手料理をお願いされたら喜ぶ女性もいるくらいでしょ。これがライフスタイルの違いかと実感したね。でも、最終的には料理してくれるというのが、イギリス人のジェントリーなところ。

 

 これからの日本には、外国人がどんどん入ってくるわけじゃないですか。正直、いまの日本人に彼らを受け入れる度量があるのかなと思うね。

 

 自分の気持ちいいことにしか『イエス』と言わないで、そうでないものは全部『ノー』。わからないことも、理解できないことも『ノー』。それでは、人間関係は断絶してしまいますよ。

 

 彼らの考えていることがわからないと距離を置きたがる日本人もいるかもしれないけれど、だったら『これがジャパニーズスタイルだ』って教えてやればいいんですよ。そうすれば異文化への理解はもっと深まるんじゃないかな」

 

まえだあきら
 1959年1月24日、大阪生まれ 新日本プロレス、UWF、リングスで活躍し、格闘王と称された。ヨーロッパ・ヘビー級王座、UWFヘビー級王座、IWGPタッグ王座などのタイトル歴を持つ。現在は、プロモーターとして活躍するかたわら、トークイベントなども開催。11月2日には、東京・巣鴨の闘道館で「前田日明の不道徳教育講座」というトークイベントを開催

無念の引退「ロジャーバローズ」ディープインパクトを超えるか

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写真提供・アロースタッド

 

 5月の「日本ダービー」で、12番人気という低評価を覆して優勝したロジャーバローズ(3歳、オス)。「単勝9310円」は、ダービー史上2番めの高配当となり、「2分22秒6」はダービーでのレコードタイムだった。

 

 その後は、フランスの「凱旋門賞」に向けて調整されていたが、8月に「右前脚浅屈腱炎」を発症。そのまま引退を余儀なくされた。

 

 

 8月22日、北海道の「アロースタッド」に移動。現在は、2020年の種つけデビューに向けて英気を養っている。

 

「今夏に急死した、父・ディープインパクトの後継としての期待は非常に大きい。種牡馬シンジケートも、あっという間に満口になりました。

 

 これから来春に向けて、体作りをしていくところです。ディープの仔だけあって、頭のよさが感じられる馬ですね」(牧場スタッフ)

(週刊FLASH 2019年10月22・29日号)

ラグビー人気を確立した山下真司「どちらかというとマザコン」

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 山下真司が、10月18日放送の『先生、、、どこにいるんです?』(テレビ東京系)で少年時代語った。

 

 山下の家では、母が働き、10歳年上の父が家事・育児を担当していたという。体を壊しやすかった山下を、小学校3年の頃に出会った女性教師が保健室におんぶして連れていってくれたことが記憶に残っているという。

 

 背中越しに「うなじをずっとうかがいながら、この先生すごく優しいんだなと思って。お母さんのように接してくれたんですよ」と回想。

 

 

 父に育てられたため、「親父とばっかり触れ合って、寝るのも親父と寝ていた。お母さんにおんぶされたことなかったんで」と教師に感謝していた。

 

 当時の自分について「親父に過保護に育てられて、小学校の団体生活になかなかなじめなくて。どちらかといと内気でおとなしい感じ」と告白。現在も「俺、どっちかっていうとマザコンなんだよね。今の奥さんも年上だしね」と明かした。

 

 その恩師を捜すが、3年前に亡くなっていたことが判明。山下は「手を握って『ありがとうございました』と言いたかった。できればおんぶもして……」と心から悔やんでいた。

 

 山下は、弱小ラグビー部を指導する熱血教師役を演じたドラマ『スクール☆ウォーズ』(TBS系)で知られる。

 

 8月24日に行われた同作の同窓会で、山下は世間のイメージを壊さぬよう、「休みの日もネクタイを締めて、表を歩くときも滝沢賢治でいた」と語り、放送後も教師役のオファーを断っていたという。

 

 さらに「ジムに行くと、『ヒーロー』がかかるんですよ。みんながこっちをチラッと見るので、ストレッチをしてても『走らないと』ってなる」と苦笑まじりに語っていた。

 

 ドラマのモデルにもなった伏見工業高校出身のラグビー日本代表・田中史朗選手ら現役選手も、『スクール☆ウォーズ』に影響を受けてきたことを公言している。山下がラグビー界に多大な影響を与えたのだ。

奥川恭伸ヤクルトへ…小学校からバッテリーを組んだ友は巨人へ

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 指名されて、「都会の生活に慣れていかないと」と笑顔を見せた。星稜・奥川恭伸(18)が東京にやってくる。

 

 大船渡・佐々木朗希(17)の4球団には及ばずも、奥川の交渉権は巨人、阪神との競合の末、高津臣吾新監督のヤクルトへ。星稜高校では松井秀喜氏以来、27年ぶりのドラ1となった。

 

 捕手の山瀬慎之助(18)も巨人から5位指名。小学4年生以来の幼馴染みバッテリーがライバルになる。

 

 

「2人は幼稚園のときから一緒で、奥川は山瀬から『やっちゃん』と呼ばれてました。小中学生のときはみんなから慕われる奥川、空気を読んで雰囲気をよくする山瀬という感じでした」(同級生)

 

 奥川自身が「すごく田舎なので」と表現する石川県かほく市で2人は育った。2020年からの東京生活で頼りになるのは、意外にも巨人へと “生き別れた” 女房役かもしれない。

 

「2人がヤクルトと巨人に指名されてよかった。同じく東京が本拠地で、二軍も同じイースタン・リーグ。近距離なので、寮の門限さえ守れば、頻繁に会える。互いに愚痴も言え、ストレスの発散になる。

 

 今年期待された中日・根尾昂、ロッテ・藤原恭太、日本ハム・柿木蓮らの大阪桐蔭組は、全国で散り散りになったのがよくなかった」(担当記者)

 

 どこまでも旧縁は頼りになるようだ。

 

(週刊FLASH 2019年11月5日号)

ラグビー堀江翔太、亡父の仏前に飾った「桜のジャージ」

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妻の友加里さんと

 

 ラグビー・ワールドカップ(W杯)日本大会で初の8強入りを果たした日本代表。快挙を成し遂げた選手たちの奮闘は賞賛に値するが、その陰にはメンバー外の選手や妻、裏方たちという “縁の下の力持ち” がいた。

 

 スクラムの中心・堀江翔太(33)には、W杯での勇姿を見せたかった人物がいた。小学校時代、ラグビーをすすめてくれた父・慎一さん(享年64)だ。慎一さんが大腸ガンを発症したのは約10年前だった。

 

 

「入退院を繰り返していましたが、関西で試合があるときはできるだけ会場に足を運んで、『息子の活躍がなによりの特効薬なんだ』と話していました。今大会もなんとしても見に行くんだと言って、その気持ちが闘病の支えになっていた」(スポーツライター)

 

 だが願いも虚しく、慎一さんは2019年3月、天国に旅立った。

 

 葬儀で堀江は「父が僕のプレーをいちばん気にしてくれていた」と涙ながらに語った。父の仏壇には、2015年W杯で南アを撃破した際の桜のジャージが飾られている。

 

 そして始まった今大会、母の則子さんが「お父さん、翔太がまたやってくれましたよ」と語りかけているという。

 

 失意の堀江を救ったのが、妻の友加里さんだ。夫が試合で留守がちのため、2人の子供と家庭を守りつづけた。

 

 そして、堀江のトレードマークとなっているドレッドヘア。じつはこれ、手先が器用な友加里さんが編んでいるもの。編み上がるまでに5時間もかかるという。

 

「そのぶん一緒に過ごせるんです。この5時間が、家族で過ごす貴重な時間になっています」(友加里さん)

 

(週刊FLASH 2019年11月5日号)

愛知から栃木まで…ラグビー「田村優」を殴りにきた伝説の父

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散髪中の田村

 

 ラグビー・ワールドカップ(W杯)日本大会で初の8強入りを果たした日本代表。快挙を成し遂げた選手たちの奮闘は賞賛に値するが、その陰にはメンバー外の選手や妻、裏方たちという“縁の下の力持ち”がいた。

 

 司令塔の田村優(30)は、高校進学にあたって、父・誠さんがラグビー選手であったこともあり、「ラグビーがやりたい」と父に申し出た。そこで誠さんの同期の吉岡肇監督がいる國學院栃木高校に進学。

 

 

 高校1年のとき、田村は授業中に立たされることに。その最中、隠れて弁当を食べた。笑い話として、吉岡監督は誠さんに伝えたが、これが大事件に。

 

 激怒した誠さんは息子に「今からぶん殴りに行くから正座して待っていろ」と、愛知から栃木まで車を飛ばしてきたという。ちなみに、“面会時間”はわずか10分だった。

 

 選手たちの気分転換のひとつとなっているのが散髪だ。代表選手の髪を切るのが「THE BARBA TOKYO」のオーナーであるTOMさん。ロシア戦前日にも、田村が訪れた。

 

「田村さんはもともと口数が少ないんですが、いつにも増して寡黙だったように思う。大事な一戦を控えて気持ちが高まり、緊張感がみなぎっているようでした」

 

 大会が進むにつれ、選手の表情も変わっていったという。

 

「アイルランド戦前に選手が来店した際は、リラックスしているように見えた。3戦めとあってか、サモア戦は多少の疲れが感じられた。でもスコットランド戦前は、思いっきりやるしかないといった感じで、終始賑やかでした。

 

 レメキ選手と田村選手は、『ここまで来たんだからオールブラックスと対戦してみたい』と、会話を弾ませていました」

 

(週刊FLASH 2019年11月5日号)

加藤哲郎、日本シリーズ「巨人はロッテより弱い」発言の真相は

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写真・谷本潤一

 

 100試合以上のペナントレースとは違い、負けたら終わりの「日本シリーズ」。最高峰の舞台の裏にあった男たちの人間ドラマを追う。

 

 巨人と近鉄が対戦した1989年の日本シリーズ。6回1/3を無失点で、第3戦の勝ち投手になった加藤哲郎(55・近鉄)さんに、ある記者が「(巨人は)ロッテより弱いんじゃないか?」と聞いた。

 

「僕は『ロッテに失礼なんで、そうは答えられないです。ただ打線のうえでは、(ロッテのほうが)怖いかもしれない』と答えました。そしたら翌朝の新聞に『ロッテより弱い』と。そのときは、なんとも思わなかったんですが、先輩、後輩が『エラいことになってるで』と言う。球場に行くと、前日とはまったく違う雰囲気でした」

 

 

 その日までの巨人は3連敗中。シリーズ敗退の崖っぷちにあった。

 

「意外にも巨人側が怒ってるとか、そういった“圧”を感じることはなかった。やはり3連敗中だったからでしょうか。東京ドームの巨人ファンのスタンドもおとなしめだったんです。言われ放題で気分は悪いんだろうけど、言い返す言葉もないし……みたいな、しょぼくれた感じだったんでしょうね」

 

 しかし、結果はそこから連敗。近鉄が3勝2敗のかたちでホーム・藤井寺球場での試合を迎えることになった。

 

「もう、そのときは形勢が不利になっていました。よく『ホームに戻るんだから』と言われますが、やっている選手からしたらそんな単純なものじゃないですよ。

 

 応援団は増えますけど、選手たちの気持ちの中では『ちょっとこれはマズいなあ』、こんな感じでした。近鉄は5戦めのエース対決で、原(辰徳)さんの満塁本塁打で負けた。そこが分岐点でした」

 

 そして3勝3敗で迎えた第7戦、ふたたび加藤さんに先発がまわってくる。巨人打線に打ち込まれ近鉄は、4連敗で日本一を逃した。

 

「『やっぱり、自分の順番になるわな』『分が悪いな』と思いました。結果的に駒田(徳広)さんに先制本塁打を打たれ……。でも、『勝負は時の運』『負け方が悪かっただけで、1つの勝ち負けの差だけ』と割り切っている部分が、当時はありました。

 

 僕だけじゃなくて、エースの阿波野(秀幸)も山崎(慎太郎)も1勝1敗ですから。でも、こうやってクローズアップされることはありがたいです。あのことは自分が野球をやっていた“足跡”のように感じます」

 

かとうてつろう
1964年4月12日生まれ 宮崎県出身 ドラフト1位で1983年に近鉄入団。1989年8月、ダイエー戦でプロ初完封勝利。1994年、広島へ移籍するも、1シーズンで引退。引退後は俳優、クラブ店長、焼き肉店店長などを経験した

 


リーチ マイケルは三色丼が好き「ラグビー日本代表」深イイ話

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両親(左側2人)を訪ねたリーチ一家

 

 ラグビー・ワールドカップ(W杯)日本大会で、悲願の初8強入りを果たした日本代表。10月20日の南アフリカ戦では涙を飲んだが、快挙を成し遂げた選手たちの奮闘は賞賛に値する。その舞台裏には、各選手にまつわる “深イイ話” が。

 

 キャプテンのリーチ マイケル(31)が、留学生として札幌山の手高校に入学したのは15歳のときだった。ホームステイ先の森山久美子さんが述懐する。

 

 

「不安が大きかったなか、いっさい愚痴は言わなかった。食事は私たちと同じものを食べる、英語はいっさい禁止と、あえて厳しく接しました。お米を食べる習慣はなかったのですが、最後には、私が作ったひき肉と卵と野菜の『三色丼』が大好きになったんです」

 

 15人と、過去最多の外国出身選手が名を連ねるいまの日本代表。そんな彼らのまとめ役がトンプソン ルーク(38)だ。

 

「リーチは、時として外国出身選手に強く言えないときがある。そんなときが、彼の出番。きついことも言うし、最年長で誰よりも走り、誰よりもタックルする、行動で示すリーダーです」(担当記者)

 

 途中出場で、「うまく試合を終わらせる」役割を担っているのが田中史朗(34)だ。

 

「彼は試合前、妻の智美さんに、『命を懸けて戦ってくるから、もし俺が死んだら、いい人を見つけて新しい人生を歩んでほしい』と、遺書を渡すほど試合に懸けている。

 

 また、納得できないプレーをする選手には、『嫌われても勝てるのなら』と、厳しく意見する。だが今大会は、そういう場面がほとんどない。『それだけチームが成熟してきたんだ』と、嬉しそうに語っていた」(同前)

 

 松島幸太朗(26)と福岡堅樹(27)は、ともに日本が世界に誇る「フィニッシャー(トライをする選手)」だが、2人には共通点が多い。

 

「松島は桐蔭学園卒業後、スーパーラグビーの『シャークス』のアカデミーでプレーしたが、出場機会が限られ、主力にはなれなかった。

 

 福岡も、進学校の福岡高校から、一浪して筑波大に入学。将来を嘱望されながら、2人とも挫折を味わっている」(協会関係者)

 

 並々ならぬ意欲で、今大会に臨んでいる点も同じだ。

 

「松島は、サッカーの欧州CL決勝を現地で観戦。雰囲気に圧倒されると同時に、『ラグビーもこれくらい盛り上げなければ……』と決意した。

 

 福岡は東京五輪後、医学の道に進む。W杯は今回が最後だけに、結果に飢えていた」(同前)

小林宏が明かす「日本シリーズ」オマリーに勝った14球め

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 100試合以上おこなわれるペナントレースとは違い、負けたら終わり、甲子園さながらに本気でぶつかる「日本シリーズ」がスタートした。

 

 日本一を争う場では、「最高峰の仕事」が勝負の行方を左右してきた。その舞台裏にあった「ドラマ」を聞くべく、元オリックスの小林宏さん(48)を訪ねた。

 

 

「江夏の21球」(1979年)に勝るとも劣らない日本シリーズの名勝負が、1995年の「小林―オマリーの14球」だ。

 

「負けたら終わりの4戦め。延長10回からマウンドに上がりました。延長11回。一死一、二塁、一打サヨナラの場面で、オマリーです。このシリーズ、5割近く打っていた」

 

 勝負を決めた14球めは、「真ん中低めへのストレートだけど――」と、小林さんは話す。

 

「初球、内角へスライダー。2球め、内角低めの直球。2球とも狙ったとおりで、追い込んだ。3球めも内角低めの直球だけどボールに。4、5、6球めはファウルされ、7球めは直球が真ん中へ。『うわぁー』と」

 

 ライトへの “大ファウル” 。8球めの真ん中の直球もファウルに。9球め、シュートが外角に外れ、ボール。2球連続ファウルの後、12球め。

 

「 “パッコ?ン” と打たれて、いちばん危なかった(笑)。13球めはスライダーがボールで、フルカウントでした。

 

 じつは、最後の1球は、力みすぎたら “ナチュラルフォーク” みたいに落ちた。オマリーが振ってくれて、ラッキーという感じでした」

 

 今季は、当時の捕手・中嶋聡二軍監督のもと、オリックス2軍投手コーチを務めた。

 

「小学生の子供に、YouTubeであの場面を見せてます。パパの偉大さを(笑)」

 

こばやしひろし
1970年11月30日生まれ 広島県出身 ドラフト1位で1993年にオリックス入団。入団以降、先発、リリーフでフル回転。1999年、2000年と2年連続で開幕投手に。2005年楽天で引退。2016年にコーチでオリックスに復帰

 

(FLASH DIAMOND 2019年11月15日増刊号)

八村塁「ダブルダブル」達成「アリーナが広いほど興奮する」

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写真:AP/アフロ

 

 10月23日、ワシントン・ウィザーズの八村塁選手が、バスケットボール男子の世界最高峰リーグ・NBAデビュー戦に出場。12得点・10リバウンド(シュートして外れたボールの奪取)と、2項目で2桁の得点を達成、日本人初の「ダブルダブル」を記録した。

 

 チームこそ負けたものの、ウィザーズの新人が開幕戦で「ダブルダブル」を達成したのは、1994年のジュワン・ハワード以来。八村自身は「試合には負けてしまったが、チームにとって初めての試合。僕としてはそこそこの仕事はできた。それでも勝てなかった。足りないところがいっぱいあった」とコメントした。

 

 

 そもそも八村以外の日本人のNBA選手は、田臥勇太、渡辺雄太の2人だけ。その上、NBA開幕戦の先発メンバーに日本人選手が起用されるのは、八村が初めてだ。

 

 10月23日の『スポーツ報知』では、田臥が八村について「メンタルがどんどん強くなった。『自分がエースなんだ』とプレーに自信がある。内に秘めた熱いものを遠慮なく表現できるのは、米国でも常に高いレベルにいたからこそ」と称賛している。

 

 実際、八村の姿に、緊張の色は見られなかった。試合直前のインタビューでは「アリーナが広ければ広いほど興奮する」と笑顔で語っていた。

 

 日本の富山県で育った八村だが、食事などアメリカでの生活には不便を感じていない様子。苦手だった英語もそれほど問題にはなっていないという。

 

 試合後も「満員の会場で試合がやれてすごくよかった。緊張せず、練習でやっている通りに試合に入れた」と語っていた。今後の活躍がますます楽しみだ。

スポニチ記者・万哲が指南「10.27天皇賞」穴馬はコイツだ!

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2018年の天皇賞

 

 秋の競馬は「GI戦線」真っ盛り! 10月27日に東京競馬場でおこなわれる伝統のGI「第160回 天皇賞(芝2000m)」をガイドしてくれるのは、『スポーツニッポン』の「万哲」こと小田哲也記者。万馬券ハンターが、“激走パターン” から見つけた穴馬を指名する!!

 

 

「アーモンドアイ」「サートゥルナーリア」の “2強対決” が注目の一戦。波乱が多いレースだが、その理由は「ここが大目標ではない馬が人気になる」からだ。

 

 

 この後の「ジャパンカップ」、あるいは香港遠征を念頭におき、「とりあえず天皇賞」という馬は多い。今回の2強も、今秋の大目標は、おそらくここではない。そこに穴党のチャンスがあるはずだ。

 

 穴馬の多くが「毎日王冠」をステップにしている。が、2019年の出走馬で「これ」という馬は見当たらない(「ダノンキングリー」は別路線の見込み)。そこで注目は、「宝塚記念」からの直行組。過去10年でも2勝(「ブエナビスタ」「キタサンブラック」)、2着が延べ4頭。これを狙わない手はない。

 

スワーヴリチャード

 

「スワーヴリチャード(牡5/栗東・庄野)」は、2018年の「大阪杯」勝ち馬だが、典型的なサウスポー。前走の宝塚記念も、3着に頑張ってはいるが、左回りのほうが、走りは圧倒的にスムーズになる。2018年は10着に大敗したが、スタート直後に不利を受けてのもので度外視。

 

アルアイン

 

「アルアイン(牡5/栗東・池江)」は、2000mのGIを2勝。ベストの距離で大目標はここだろう。2018年は瞬発力勝負で切れ負けし4着だったが、とにかく大崩れしない強さがある。成績のわりには不思議と人気がないのも、穴党には大きな魅力だ。

 

ワグネリアン

 

「札幌記念」からの直行も、天皇賞への “隠れ王道” だ。「トーセンジョーダン(2011年)」や、「モーリス(2016年)」のがこのケース。2019年は、「ワグネリアン(牡4/栗東・友道)」だ。ダービー馬だが、血統面からも、最適距離は2000mではないか。重賞2勝の東京コース。最高の条件が揃う舞台で一発あり。

 

 一方、前走「オールカマー」4着で株を下げたのが、2018年の覇者「レイデオロ(牡5/美浦・藤沢)」。あのレースを見る限り、本番での巻き返しは難しそう。だが、GIの速いペースになれば一変の可能性も。人気が極端に落ちるようなら買ってみたい。

 

【天皇賞(秋)の穴馬激走パターン】
(1)毎日王冠で負け、人気の盲点に(「エイシンフラッシュ」「ステファノス」など)
(2)宝塚記念からの直行(「スクリーンヒーロー」「レインボーライン」)
(3)札幌記念から、2000mに重点(「トーセンジョーダン」)

 

 

 次のページでは、過去の天皇賞(秋)での穴馬の活躍を、データで紹介する。

稀代の業師「安美錦」引退してわかった「8つの金星の重み」

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絵莉夫人(右)と

 

 2019年7月に現役を引退し、年寄「安治川」を襲名した元関脇・安美錦。関取在位117場所(歴代1位タイ)など、数々の記録を持つレジェンドだが、“上位キラー” としても、つとに知られた存在だった。

 

「対戦した5人の横綱すべてから金星を獲得」という、とてつもない大記録を残した稀代の業師が語る「俺が対戦してきた横綱」とは――。

 

 

●VS.貴乃花/金星1(2003年一月場所・決まり手:送り出し)/通算成績1勝0敗

 

 貴乃花(光司)の最後の相手が、安美錦だったことは有名だ。当時、安美錦は三役経験のない24歳。貴乃花は直前の場所を右膝の怪我で全休。この一月場所に、復活を懸けていた。そして、8日目の結びの一番のことだ。

 

「じつは、取組前日の武双山戦で右肘を痛めていた。休場するほどの怪我だったけど、次の日の相手が貴乃花さんだと聞いて、出ることにしたんだ。自分にとっては、入門したときから雲の上のような存在だったから、ただ対戦できるだけで嬉しかった。

 

 仕切っているうちに、右肘の痛みを感じなくなって、すごく集中できてた。無意識に動いて、『あれ、勝っちゃったよ』という感じだったね。

 

 ところが、場内がシーンと静まりかえって、結びなのに座布団も飛ばないんだ。『お前、何やってくれたんだ』みたいな雰囲気で。すごく気まずい感じだったことを覚えている」(安美錦、以下同)

 

 当時、前頭四枚目で初金星をとった安美錦は、「勝った瞬間はなにがなんだかわからず、頭がぼーっとした」とコメントしていた。貴乃花は、翌日に引退を発表。

 

「『貴乃花に勝った相手は、みんな強くなった』と言われ、プレッシャーを感じたこともあった」というが、安美錦はこの後、“稀代の業師” として土俵を盛り上げていくことになる。

 

●VS.武蔵丸/金星1(2003年七月場所・決まり手:寄り切り)/通算成績1勝2敗

 

 安美錦にとって、初の横綱戦の相手は武蔵丸だった。新入幕から、約2年後の2002年五月場所。

 

「立合いでまず一発張られて、次の一発で吹き飛ばされた。あれほどの破壊力は、それまでもその後も、経験したことがない。正直、死ぬかと思ったよ。部屋に帰ってから、後頭部がガンガンして痛くなってきたのを覚えてる(笑)」

 

 2度めの対戦は、2003年七月場所。

 

「仕切りのときも、向こう側が見えないくらい大きいんだ。『怪我しなければいいや』くらいの気持ちでいったら、勝ってしまってね。

 

 いくつも金星を挙げてきたけど、いちばん嬉しかったのがこの金星。『こんな大きな人に勝てたんだ』と、感極まっちゃってね、うるっときたことを覚えている」

 

 当時の安美錦は、幕内最軽量の124kg。対する武蔵丸は、最重量の235kg。動き回って横から攻め、最後は懐ろに飛び込んで寄り切った。

 

「このあたりから、上位や大関相手にも勝てるようになってきて、この一番が大きな自信になったと思う。でもね、二度と当たりたくはないね(笑)。大きいだけじゃなくて、威圧感がものすごいんだ」

 

 この場所、安美錦は前頭筆頭で、2勝12敗1休と負け越した。

 

●VS.朝青龍/金星4(2005年九月場所・決まり手:外掛け、2007年五月場所・決まり手:寄り倒し、2008年九月場所・決まり手:送り出し、2009年五月場所・決まり手:押し出し)/通算成績6勝17敗

 

 朝青龍と最初の対戦は、2002年三月場所。当時、関脇だったが、1年後には横綱に。飛ぶ鳥を落とす勢いだった。

 

「ずっと勝てなかったな。確か7連敗。『これはなんか攻め方はないか』ということで、よく高砂部屋に出稽古に行ったもんだよ。それでなんとか、年に1回くらいは勝てるようになったんだ」

 

“難敵” に初めて勝ったのが、8度めの対戦となる2005年九月場所。安美錦はこのころ、体重が120kg?130kgほどの小兵だった。全盛期の朝青龍からは、これを含めて金星を4個。それ以外にも、安美錦が小結のときに1勝、不戦勝でも1勝(ともに金星に含まれず)を挙げている。

 

「スピードがあってパワーもある。そしてバランス、反応が抜群によかった。たとえば、いなしたときの反応。普通の力士がひとつ反応する間に、朝青龍は2つ3つと反応してくる。

 

 あとはなんといっても、気迫を前面に出す気持ちの強さ。ちょっと、やんちゃな部分もあったけど(笑)。自分が持っている以上のパワーを本場所の土俵で出してくる。そうなったら手がつけられなかった。毎回どう攻略するか、練りに練っていたよ」

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