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元近鉄・加藤哲郎、引退後の天職は「健康麻雀の講師」

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写真・谷本潤一

 

 1989年の日本シリーズで、「巨人はロッテより弱い」発言で注目された加藤哲郎さん(55・近鉄)は、1994年にプロ野球選手を引退。今は、「賭けない、酒を飲まない、タバコを吸わない」という「健康麻雀」の講師をしている。

 

「麻雀は現役時代、同期や先輩がやっているのを見て覚えました。初めてやったとき面白かったんです。同期入団で捕手の古久保(健二)らと、寮の部屋で夜な夜な卓を囲んでましたね。

 

 

 どうせやるなら勝ちたいですし、研究はよくしました。独学で、麻雀の本を読んだり、漫画を見たり。覚えて2年めくらいからあまり負けなくなりました」

 

 引退後は、野球解説、俳優、焼肉店の店長など職を転々としていた。

 

「前職をやめるとき、麻雀の先生をされている方から誘っていただいたのが、今の仕事のきっかけです。人とコミュニケーションをとるのも嫌いじゃないですし、楽しくやらせてもらっています。ここが自分の居場所になったな、という感じです」

 

 巨人を挑発するかのような発言で注目を浴びた加藤さんだが……。

 

「健康麻雀の生徒には他人がアガったら『おめでとう、と言いましょう』と教えています。講師の仕事とは別に、今年は『麻雀最強戦』の決勝戦にも進出しました。野球で逃した日本一をここで狙います(笑)」

 

かとうてつろう
1964年4月12日生まれ 宮崎県出身 ドラフト1位で1983年に近鉄入団。1989年8月、ダイエー戦でプロ初完封勝利。1994年、広島へ移籍するも、1シーズンで引退。引退後は俳優、クラブ店長、焼き肉店店長などを経験した


元オリックス・小林宏「オマリーへの14球」新聞一面に載って驚愕

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「野村ID vs. 仰木マジック」と言われた1995年の日本シリーズ。ヤクルトとオリックスの対戦で一番の盛り上がりを見せたのが、第4戦での「小林―オマリーの14球」だ。その当事者である小林宏(48・オリックス)さんが当時の熱狂を振り返る。

 

「オマリーとの対戦は全部、捕手の中嶋(聡)さんのサイン通りです。僕がサインに首を振らなかったというより、首を振っても中嶋さんが同じサインを出してくるんです(笑)。

 

 

 14球めで抑えて、ベンチに戻った後も特別何か言われるとかはなかったんですよ。『もう1イニング行くぞ』と言われたくらいで。僕自身もゼロに抑えられてよかったなあ、という具合でした」

 

 じつはこの勝負を放送していたテレビ中継では、瞬間最高視聴率55.9パーセントを記録していた。

 

「このシリーズ、前日の3戦めにも投げてるんですよ。そのときは打たれてすぐに降板したんです。テレビ中継だったら、『小林が登板です。ここでCMを……』となって、CM明けたら降板している、みたいなくらいあっという間でした。

 

 それが『14球~』の翌日に新聞を見たら自分が1面だった。宿舎の食事会場からこっそりと新聞を持って帰りましたよ(笑)。当時はパ・リーグが1面になることなんてめったにないんで。今でも家のどこかにあると思います」

 

 オマリーとのその後については、「何もないです。僕が英語しゃべれないですし」と話す。

 

 江夏豊(当時広島)が大ピンチを抑えた1979年の「江夏の21球」に並ぶ、日本シリーズの名勝負と言われているが……。

 

「僕はカープファンだったんで、その場面を見ていましたけど、全然並んでないです。だって、江夏さんが抑えたのは1イニング。僕はオマリー1人だけですから。でも、あの勝負で東京の野球ファンや、大企業の社長さんとかに名前を覚えてもらいましたね。あと契約更改では予想より少し年俸が高かった気がします(笑)」

 

こばやしひろし
1970年11月30日生まれ 広島県出身 ドラフト1位で1993年にオリックス入団。入団以降は先発、リリーフでフル回転。1999年、2000年と2年連続で開幕投手に。2005年楽天で引退。2016年にコーチでオリックス復帰

日本ラグビー「ヘッドコーチ降ろし」へ選手がスクラム

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ヘッドコーチのジョセフ氏(写真・JMPA)

 

 ラグビーW杯で史上初のベスト8進出を果たした日本代表。準々決勝・南アフリカ戦の激闘を終え、緊張もほぐれたのか、10月21日の記者会見は選手、スタッフが揃って和やかな雰囲気になった。

 

 ヘッドコーチ(以下HC)のジェイミー・ジョセフ氏(49)にまつわる「騒動」が起きたのは、その翌日の10月22日。ラグビーライターが解説する。 

 

 

「もともとW杯期間中に、日本ラグビー協会・森重隆会長と清宮克幸副会長が揃って『ジョセフの代わりはいない』と発言したので、HC続投が既定路線と思われていた。

 

 だが、10月22日に『日刊スポーツ』が『ジョセフHC白紙も』と報道し、協会内が “ジョセフ続投” で一枚岩でないことが、明るみに出てしまった」

 

 実際に協会は水面下で、次期HC候補として、トヨタ自動車のジェイク ホワイト監督(55)や神戸製鋼のウェイン・スミス総監督(62)に接触していた。

 

「協会がほかの候補者と交渉したのは当然です。じつは『次のW杯は、ジョセフだけでは勝てない』と手腕を疑問視する幹部が多い。

 

 ですが、礼賛報道一色のいま、『功労者のジョセフに続投要請しないなんて、協会はおかしい』という世論が出来上がってしまった」(同前)

 

 前出の報道の2日後の10月24日、協会はジョセフHCに正式に続投オファーを出した。

 

「しかし、この決定には、代表選手から不安の声が出ています。選手たちは、『今回の快進撃の本当の立役者は別にいる』と思っている。

 

 10月21日の会見で、田中史朗はトニー・ブラウン、スコット・ハンセンの両コーチの続投を強く希望しましたが、じつはこの2人こそが、選手たちからジョセフよりもずっと信頼を得ている存在なんです」(協会関係者)

 

 攻撃面を担当するブラウンコーチと、守備担当のハンセンコーチ。「躍進は彼らがいたから」と、選手だけでなく協会幹部もみているのだ。

 

「ジョセフHCではなく、ブラウンが残ることこそが重要なんです。彼は新しい戦術やサインプレーを生み出す、代表の “頭脳” 。

 

 だが、すでに彼はスーパーラグビーの『ハイランダーズ』と契約を結び、日本から離れ、オールブラックス入りが噂されている。ハンセンも近く代表を抜ける可能性が高い。

 

 ジョセフHCはチームを “ONE TEAM” にまとめる力は評価されたが、長らく勝てず、主将のリーチ マイケルに『エディー・ジョーンズ前HCのやり方がよかった』と批判された時期もある。

 

『両コーチが抜けて “飛車角落ち” のジョセフHCだけなら別の人を……』と、選手から声が出るのは必須です」(スポーツ紙記者)

 

“240日合宿” など、日本代表中心のスケジュールで強化したジョセフHCだが、「人脈の少なさ」も懸念されている。 

 

「彼の指導経験は、ニュージーランドと日本の2カ国でだけ。ブラウンに代わる参謀を探す作業も、難航するだろう」(同前)

 

 続投要請への、世間の歓迎ムードとは逆に、4年後のフランスW杯に向けて代表には暗雲が立ち込めているのだ。前出のラグビーライターは、「フランスW杯の組み合わせが決まる2021年まで、世界ランク8位以内の維持が必要」と語る。

 

「8位以内を維持し、予選プール内で世界ランク上位でないと、W杯は厳しい戦いになってしまう。なので、選手の不安を払拭し、強さを維持できるスタッフが必要なんです」

 

 代表選手たちは、“反抗のスクラム” で押し勝てるか――。

 

(週刊FLASH 2019年11月12日号)

野村貴仁が明かす「日本シリーズ」松井秀喜より怖いのは…

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 100試合以上おこなわれるペナントレースとは違い、負けたら終わり、甲子園さながらに本気でぶつかる「日本シリーズ」がスタートした。

 

 日本一を争う場では、「最高峰の仕事」が勝負の行方を左右してきた。その舞台裏にあった「ドラマ」を聞くべく、元オリックスの野村貴仁さん(50)を訪ねた。

 

 

 震災後の神戸に歓喜をもたらした、1996年のオリックスの日本一。その立役者は、松井秀喜を抑えた野村さんだ。第1戦のピンチで松井からカーブで三振を奪ったとき、「松井には野村」という起用法が確立した。

 

「当時のパ・リーグは、清原(和博)さんら強打者揃いでしたが、ここらへんを抑えていたので。松井も若かったし、『まっすぐをファウルした後、カーブを低めに集めて勝負を決めよう』という感じでした。

 

 僕は左投手なんで、右の落合(博満)さんとの対戦が怖かったですね」

 

 今は高知に住み、2018年10月から大工仕事も始めた。

 

「まだ雑用ばっかり。掃除はうまくなりました。じつは高いところがダメなんで、屋根も上れなかったんですよ(笑)。

 

 前から農業もやってます。カナブンにトウモロコシをやられたり、イノシシにコメをやられたり……でも、いまはサツマイモを400本植えて、200本が育ってます。11月からは『野村の部屋』という飲み屋も始めます。野球の秘話なんか話したいです」

 

のむらたかひと
1969年1月10日生まれ 高知県出身 ドラフト3位で1991年にオリックス入団。1998年、トレードで巨人へ移籍。2002年には米・ブルワーズで21試合登板

 

(FLASH DIAMOND 2019年11月15日増刊号)

元日本代表キャプテン「廣瀬俊朗」ラグビーブーム定着を実感

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 ラグビー元日本代表キャプテンの廣瀬俊朗が、10月30日に都内で行われた『FANCL FOOD TRAINING』記者発表会に登場した。サッカー元日本女子代表の丸山桂里奈も参加。

 

 イベントでは発芽米を使用した料理を試食したが、2016年に一線を退いてからの食生活を聞かれると……。

 

 

「すっかり変わった。トレーニングしないので、食べる量を減らさないといけないし、生活が不規則になりがち。食べるタイミングも難しい。白米は夜に食べないようにしているけど、発芽米なら栄養価も高いので、夜に食べてもよさそう」

 

 ラグビーワールドカップ2019で日本代表はベスト8に終わったが、ブームは冷めていない。「嬉しい」と述べながらも、課題を指摘した。

 

「2015年(前回大会)は南アフリカに勝って、1回ブームは来たけど、継続できなかったと、ラグビーをやってる人はみんな思っている。今回いかに継続させるかが大事」

 

 ブーム継続の難しさを実感しつつ、今回は前回とは違う手応えがあるようだ。

 

「『ノーサイド・ゲーム』(TBS系)、今回のラグビーワールドカップ、どっちかだけでもここまで盛り上がらなかったはず。ドラマを見てラグビーって面白いなと思ってから、本物のラグビーも見られたからこそ、より共感を得られたのではないかな。

 

 自分の家の前の公園でラグビーやる子供が増えてきたり、ラグビースクールの問い合わせが増えたりしているので、前よりは定着したなと思う」

ラグビー日本代表「田中史朗」妻が語るスパイクの刺繍秘話

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田中選手と妻・智美さん

 

「アイルランド戦が終わった後に、主人が私と子供たちが泊まっているホテルに来てくれて。会った瞬間、2人ともハイテンションで、『よかったね~』って、思いっきりハグしました(笑)」

 

 史上初のベスト8進出を果たし、“桜旋風” を巻き起こしたラグビー日本代表。快挙は、この男なくしてはあり得なかった。W杯3大会連続出場、バックス陣最年長、田中史朗(34)の妻・智美さん(30)が、夫の “死闘” 秘話を明かしてくれた。

 

 

右足には自分と家族の名前を刺繍。左足には、W杯開催国名が

 

「あとで知ったのですが、スパイクに家族4人の名前を刺繍して試合に臨んでいたんです。

 

『家族と一緒にグラウンドで戦うんだ。家族も “ONE TEAM” という意味で入れた』と、そう言ってくれたことがすごく嬉しかったです。『もうちょっと早く教えてよ』と思いましたけどね(笑)」

 

 これまで、田中は大舞台に臨む際に、智美さんに “遺言” を伝えてきたという。

 

「初めて言われたのは、スーパーラグビー挑戦を表明した7年前。『命を懸けて戦うから、もし俺が死んだらいい人見つけてね』って。当時、新婚だったので、びっくりして涙が出てしまいました。

 

 2回めが前回のW杯で、今回が3回め。メンバーが発表されて、日の丸を背負って戦えるとなったときに言われました。驚きは、なかったです。『日本ラグビーのために体を張るのは、主人の任務』というのが、この4年間で理解できましたから」

 

 166cmと小柄ながら、試合では2m近い大男に怯まずタックルを仕掛ける田中。一方、南アフリカ戦後、松島幸太朗(26)がSNSに上げた田中の号泣写真が話題になるなど、涙もろい一面もあるという。

 

「自分が苦しかったというか、W杯までの経緯もありますし、努力が報われて結果が出て、そして日本中が盛り上がってくれて……、感極まったんだと思います。家でもけっこう泣いてますよ。

 

 過去のつらかった時期の番組や、日本ラグビーの苦難がテーマの番組を観ては、『日本ラグビーがよくなってくれれば……』と泣いています。主人のその姿を見て、私も涙が出ちゃって(笑)」

 

 日本ラグビーを愛し、普及を第一に考える。今大会のフィーバーを一過性のものにしたくないと、すぐに普及活動を始めるという。

 

「前回のW杯でも、南アを破る大金星で盛り上がったのに、トップリーグが始まると、スタンドには空席が目立っていました。それを見た主人は、自ら協会に電話して『選手はこれ以上、何をしたらいいんですか!』と、涙ながらに訴えていました。

 

 主人は『日本ラグビーのために』という思いが人一倍強い。代表にまた呼ばれれば、『もちろん行く』と言っていますし、『世間が自分の名前を知ってくれているうちに、もっと日本にラグビーを普及させたい、そのために全国を駆け回る』と。

 

 田中史朗にしかできないことで、ラグビー界に貢献してほしいですね」

 

 最後に、「ベスト8のご褒美は?」と聞くと――。

 

「少しは家族でゆっくりできそうだから、主人が大好物のチキン南蛮を作ってあげたいな」

 

写真・Starview agency

 

(週刊FLASH 2019年11月12日号)

屋鋪要が明かす「日本シリーズ」ダイビングキャッチの真相は

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 100試合以上おこなわれるペナントレースとは違い、負けたら終わり、甲子園さながらに本気でぶつかる「日本シリーズ」。日本一を争う場では、「最高峰の仕事」が勝負の行方を左右してきた。その舞台裏にあった「ドラマ」を聞くべく、元巨人の屋鋪要さん(60)を訪ねた。

 

 

 センター守備の「名人」と呼ばれた屋鋪さんの見せ場は、1994年の西武との第2戦、1-0で迎えた最終回にやってきた。二死二塁、ライナーの打球をダイビングキャッチし、同点のピンチを救ったのだ。

 

「1993年のオフに膝を手術し、あの年は週に2度注射を打ちながらだったので、万全の状態ではなかった。じつは先頭打者の打球もスタートが遅れ、無死二塁にしてしまった。

 

 あのキャッチも、脚が思うように動かずダイビングに……。皆さんに言われるような『いいプレー』だとは思えません」

 

 ただし、このキャッチで流れは巨人に傾き、長嶋巨人として初の日本一となった。

 

 現在は月曜から金曜まで、それぞれ別の場所で野球スクールを開催。同時に鉄道撮影、Nゲージの鉄道模型でレイアウトや車両を作成。鉄道文化人としても活動中である。

やしきかなめ
1959年6月11日生まれ 兵庫県出身 ドラフト6位で1978年に大洋入団。俊足の高木豊、加藤博一とともに「スーパーカートリオ」として活躍。1994年巨人に移籍。ゴールデングラブ賞5回、盗塁王を3回獲得した

 

(FLASH DIAMOND 2019年11月15日増刊号)

高橋慶彦が明かす「日本シリーズ」MVPの裏に極度の重圧

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 100試合以上おこなわれるペナントレースとは違い、負けたら終わり、甲子園さながらに本気でぶつかる「日本シリーズ」。

 

 日本一を争う場では、「最高峰の仕事」が勝負の行方を左右してきた。その舞台裏にあった「ドラマ」を聞くべく、元広島の高橋慶彦さん(62)を訪ねた。

 

 

 1979年、シーズンで33試合連続安打の日本新記録を樹立。日本シリーズも全試合で安打。さぞかし自信があったかと思いきや、内心は逆だった。

 

「記録は気楽にやった結果。守備はまったく自信がなかったんです」

 

 不安が現実のものとなったのは、第7戦9回裏、広島の1点リードで迎えた近鉄の攻撃。無死から一塁走者が盗塁。捕手・水沼四郎の送球が逸れ、無死三塁に。記録は水沼の失策も、高橋さんは、自分自身にプレッシャーをかけてしまう。

 

「満塁策を取ってマウンドに集まったけど、何を話したかまったく覚えていない。とにかく『打球が飛んでくるな』と、祈っていました」

 

 結局、広島は1点差を守りきり、高橋さんは打率.444でMVPを獲得した。

 

「嬉しさより、安堵感だけ。もし後逸で負けていたら、広島には帰れませんでしたから(笑)」

 

 現在は野球解説の仕事とともに、子供たちに野球を教えるため、全国を飛びまわっている。

 

たかはしよしひこ
1957年3月13日生まれ 北海道出身 ドラフト3位で1975年に広島入団。入団後、古葉竹識監督の指示でスイッチヒッターに。広島を代表する俊足巧打の遊撃手として長年活躍。通算477盗塁は歴代5位

 

(FLASH DIAMOND 2019年11月15日増刊号)


野村弘樹「パワプロ」は子供に勝てず「動体視力上げないと…」

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 11月3日、「eBASEBALLプロリーグ 2019シーズン ローソンeオープニングシリーズ」が開幕した。
 

 解説には、かつて横浜大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)でプレーした、野村弘樹(50)さんが登場。

 

 

 野村さんは1992年、1995年に開幕投手を務めたが、当時について「前の日は寝られない。そのなかでいかにして自分のパフォーマンスを出すか、3時間どう集中して戦うかということに意識して取り組んだ」と、重圧感と戦ったことを振り返る。

 

 緊張とはどのように向き合ったのか。

 

「始まっちゃえばやるしかない、そういった思いで前の日は過ごしていた。これをやれば緊張がほぐれるというのはないし、受け入れてやっていくしかないと。緊張したくないと思うと辛くなるけど、したっていいと思うと楽になる」

 

 同リーグは、家庭用ゲーム「パワプロ」を用いて行うリーグ戦。野村さん自身も、息子と一緒にパワプロをやるが「やるけど当たらなくて、イライラしてくる。息子とやっても勝負にならない。練習しないとな。動体視力上げないと……。視力も弱くなっているので」と話していた。

 

 ストライクは入るが、「打たれるか打たれないかは別問題」とポツリ。現役時代はおさえられても、ゲームとなると違うようだ。

サッカー西野朗監督「名古屋の女」と密会部屋3時間

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「格上に勝ったということで、タイでは英雄扱い。試合後の会見で、現地の報道陣から “ニシノ” コールが沸き起こったほどです」(スポーツ紙記者)

 

 7月からサッカー・タイ代表を率いている前日本代表監督の西野朗氏(64)。タイ代表のサッカーに “規律” をもたらしたとして、すでに名将の呼び声が高い。10月15日のW杯アジア2次予選では、強豪・UAEを破る金星を挙げた。

 

 

 ところが、この吉報の約2週間前、信じがたい情報が本誌に寄せられていた。

 

「西野監督は、名古屋にも “自宅” があるんです。その近所では、奥様ではない女性と、堂々と2人で歩いています。地元では有名な話ですよ」

 

 西野監督が家族と暮らす自宅は、埼玉県にある。2015年まで名古屋グランパスで監督を務めた西野氏だが、名古屋の “別宅” が事実とすれば、いったいなんのためなのか。

 

 驚くことに、10月2日の夜10時、その名古屋市内のマンションに、情報どおりに西野氏が現われ、慣れた様子で入っていった。

 

 翌日、午前中に散髪をすませ、白のベンツで出かけた西野氏は、近所の路上でひとりの女性を助手席に乗せた。浅田真央に似た美女・Aさんだ。

 

 2人でパン屋に寄ると、コンビニで飲み物などを調達。買い物を終え、西野宅へ戻る様子はなんとも仲睦まじい。その後、2人は3時間以上も部屋から出てくることはなかった。白昼の密会――。2人きりの部屋の中で、何がおこなわれていたのか。

 

 夕刻、スーツに着替えた西野氏は、Aさんと連れ立って自宅を出ると、ベンツで走り去った。約1時間後、ベンツが西野宅のガレージに戻ってくると、車中にいたのは、なんとAさんひとり。手慣れた様子で駐車をすませると、彼女は徒歩で15分ほどかけて、自分の家へと帰っていった。

 

 西野氏がUAE戦を終えて帰国したあとの、10月22日。本誌記者は、名古屋でまたしても2人の “お熱い” 姿を目撃する。

 

 昼の12時過ぎ。ポロシャツ姿のラフな格好で自宅を出た西野氏は、愛車を走らせ、近所の小さな神社の駐車場へ。待っていたのはAさんだ。真っ赤なジャケットを着たAさんは、素早く助手席に乗り込む。

 

 見たところ、Aさんは30代半ば。女盛りの美女と密会できるとは羨ましい話だが、はたして、Aさんとの関係を、西野氏はどう弁解するのか。マネージャーを通して本人に確認したところ、以下の返答が寄せられた。

 

「Aさんとは、趣味のマラソンを通じて知り合った、たんなる知人です。10月3日は、15冊程度のサイン本を渡すためにお会いしただけです。

 

 また22日は、ボランティアの訪問を予定している小学校を、一緒に見に行っただけです。軽率な行動であったと思いますが、おつき合いしているという事実はございません」

 

 ちなみに、10月3日、Aさんが帰路に携えていたのは、小さなバッグと紙袋がひとつだけだった。わざわざ知人女性と「小学校を見に行く」というのも、不思議な話だ。

 

 西野氏の夫人・美佐子さん(64)は、西野氏と学生時代から面識があった間柄。夫人は、名古屋にある夫の “別宅” を、そしてAさんの存在を知っているのだろうか。

 

写真・ともゆき

 

(週刊FLASH 2019年11年19日号)

「FA改革」を主張した巨人・原監督、そこまで熱くなるワケは?

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写真:AP/アフロ

 

 11月4日、プロ野球・巨人の原辰徳監督(61)が、FAによる人的補償制度の撤廃を訴え、物議を醸している。

 

 宮崎での秋季キャンプを前に、ジャイアンツ球場でおこなわれた全体練習を見守った原監督は、FA制度について「人的補償を撤廃すべき」「プロテクト枠を40人に拡大」など持論を展開した。

 

 

 一方、この日に巨人が今オフ中に楽天・美馬学投手とロッテ・鈴木大地内野手の獲得に乗り出すという報道があったことや、資金力で優位に立つ巨人の監督として提案したことで、ネット上にはこんな批判の声が上がっていた。

 

《原はDHを取り入れろとかFAの人的補償をなくせとか 日本シリーズで4連敗した理由を他に押し付けるのが露骨すぎて見苦しいね》

 

《これは流石に卑怯でしょ 日本球界を盛り上げるどころか衰退させるようなもの プロ野球ができた頃からある球団にこんなことを聞きたくなかった》

 

 今回の意見がよいか悪いかは別として、原監督がFAについて熱い思いを抱いているのにはワケがある。

 

 1990年オフ、日本プロ野球選手会の会長として「1992年オフからのFA制度導入」を求める提案書を提出した張本人こそが、当時巨人の選手だった原だからだ。

 

 原は翌1991年オフには、選手会会長として日本プロ野球機構側との “団交” に着手。「(実現されなければ)ストライキも考える」「選手会会長を辞す覚悟で臨む」と過激な発言も飛び出した。

 

 制度の実現のための交渉で、ある人物から “援護射撃” があったとスポーツライターは語る。

 

「原氏が率いる選手会とオーナー間での交渉が膠着状態にあった1991年12月、一番最初に折れたのが巨人でした。特に当時、読売新聞本社社長だった渡邉恒雄氏が『ドラフト制度は憲法、独禁法違反。FAを認めないのであれば、ドラフト制について法的に訴えればいい』『旧ソ連だって市場経済を取り入れつつあるのに、プロ野球界はスターリン以前』と原氏寄りの主張したことから潮目が変わりました」

 

 結果的に原が選手会会長を退任した後の1993年オフからFA制度は導入された。

 

 時は流れて26年。今は読売新聞社の主筆となった渡邊氏だが、いまだにプロ野球界への影響力は強い。

 

 日本シリーズ敗退から一夜明けた10月24日、球団事務所に向かった原監督は、「国内FAを含めた補強方針」を話し合い、その後、2012年以来の日本一奪回を強く望む渡邊氏にも挨拶したという。

 

 今回の「FA制度発言」が渡邊氏への目配せでなければいいが……。

競輪選手を目指した「大場翔太」現在は「楽しくユーチューバー」

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「競輪選手はあきらめたというか……。ひとまず今年は試験を見送りました。(2年連続で落ちて)無理なのかな、難しいのかなと思いました」

 

 2007年、大学生・社会人ドラフト会議で、6球団から1位指名を受け、福岡ソフトバンクホークスに入団した大場翔太さん。中日ドラゴンズを経て、2016年に現役を退いた。

 

 引退後、競輪選手を目指すべく試験を受けるも、2017年、2018年と、2年連続で不合格に。現在、アルバイトで生活を営むかたわら、YouTubeの動画配信をひっそりと行っている。

 

 

「今年の3月からです。なにかを発信したいと思ったとき、自分の強みで、なおかつ経験してきたことを伝えないともったいないかなと思って始めました」

 

 大場さんが配信しているチャンネル名は「ばっくすTV」。本名で行っていない理由には、「恥ずかしさ」があった。

 

「もっと認知されたいという気持ちもあるけど、こっそりやりたいな、と。元プロ野球選手がYouTubeやってることに恥ずかしさを感じまして……。(ファンから)認められない時代もあって、くだらないことをやってるんじゃないという批判もあったので」

 

 中日の入団会見で、休みの日になにをしているか問われ、「YouTubeを見てます」と答えるなど、現役時代からYouTubeにハマっていた大場さん。その裏では選手としての「やるせなさ」に苛まれていた。

 

「(現役のとき)最後の3~4年はうまくいかないことが多かったです。頑張っても結果につながらない時期があって。やるせなさ、悔しさ、無力感があって……。

 

 そんななか、日々の楽しみは、休みの前に夜ふかししてYouTubeを見ることでした。プロ野球選手は現場だけじゃなくて、家に帰ってからも研究したり、体のケアをしたり……。

 

 24時間野球に捧げるなかで、YouTubeでバラエティとかくだらなくても面白いものを見て、気持ちをリフレッシュしていました。また明日から頑張ろうかなと。ただ、当時は野球をやめたらYouTubeやろうとは思ってなかったです」

 

 引退後、かつての同僚だった武山真吾・現中日2軍バッテリーコーチに「必死こいて競輪選手になる」と宣言したが……。

 

「競輪(選手を目指すことを)やめたの、と聞かれることもありますけど、とりあえず見送って。2年やって、力がないから落ちてる(と痛感)。見送ろうと決めるくらい、2回めにかけてました。あれだけやって落ちるなら無理かな、と。

 

 来年以降、受けるかは未定ですけど、今でも定期的に練習はしてますよ。朝から晩まで200キロ走るとか。(競輪を)やりたいと思ったときに(体力が)落ちてからではしんどいので、ある程度、すぐ行けるように。(こんな感じなので)中途半端と思われても仕方ないかなとも思います」

 

 YouTubeへの配信を考えたのは、ちょうど1回めの試験に落ちたとき。

 

「1回め落ちたときから、競輪目指すならYouTubeやってる場合じゃないとも思うけど、やりたいことは全部やろうかな、と」

 

 だが、YouTubeを生活の糧にしているわけではない。日頃は、テレフォンオペレーターや資材搬入などのアルバイトで暮らす。

 

「YouTuberとしてはまだ1円ももらえてないです。つい数週間前までは、(収益を得る必要条件の)チャンネル登録者数1000人、総再生時間4000時間に対して、1000人いってませんでしたし。

 

 撮影のため、レンタルオフィスとかにお金を払っているくらいです(11月5日時点ではチャンネル登録者数2030人、総再生時間は本人曰く3000時間超)。ただ、お金を稼ぎたいというより好きだからやってます」

 

 YouTuber1本でやるのは、「プロ野球選手になるくらい難しい」と正直な思いを口にするが、「楽しい」と話す大場さんの笑顔には、かつてYouTubeのCMで流れていた「好きなことで、生きていく」像が垣間見えた。

 

「今のままで、僕みたいな(チャンネル登録者数)数千人だと、正直月2000円にしかならないです。これでは生活できない。ただ、面白い。1カ月前までめっちゃ凝って作っても、再生回数が30回くらいだったのが、最近は500回台に。結果が出ると面白いですね。それでお金が出たら、なおいいけど(笑)」

 

おおばしょうた

1985年6月27日生まれ 東京都出身 八千代松陰高、東洋大を経て、2007年に6球団競合の末、ドラフト1位で福岡ソフトバンクホークスに入団。2015年、中日ドラゴンズに移籍。2016年シーズンに現役を引退した。プロ通算15勝21敗

井上尚弥、WBSS決勝のドネア戦で、見せろ「稲妻拳」

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 背中の筋肉の盛り上がりが進化の証しか!?
 11月7日におこなわれるWBSSバンタム級決勝に向け、井上尚弥(26)の調整が最終段階に入ってきた。

 

 井上を撮りつづける山口裕朗カメラマンは、こう語る。

 

「試合2週間前くらいまでは、体はこのくらい大きい。そこから、試合のウエイトまで削ぎ落として調整していきます」

 

 

 下馬評では、ノニト・ドネア(36)に圧勝し、これがバンタム級で最後の試合になると予想されている。“電光石火の一撃” をねらう井上の視線の先には、2階級上のフェザー級が――。

写真・山口裕朗

(週刊FLASH 2019年11年19日号)

前田健太、ポストシーズンは「勝ちきれなくて悔いが残った」

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 MLB・ドジャースの前田健太投手が、11月7日に都内で開かれた『フィリップス SmartSleep新製品発表会』に登場した。

 

 睡眠の製品にちなみ、自身の睡眠事情について「睡眠はコントロールできなかった」と課題を口にする。

 

 

「シーズンオフは基本的には好きな時間に寝られて、好きなときに起きられるけど、シーズン中は19時から(試合が)始まって、23時に帰宅。どうしても睡眠時間が削られることが多かったです。睡眠の質は日によってバラバラで、どうしてもコントロールできなかった。自分でもよい睡眠なのか悪いのかわからなくなる」

 

 登板前日は「睡眠時間を確保するようにしています。睡眠不足だと体が重くなるので」と話し、登板後も「先発だと4日間投げないようになりますが、疲れをとることも大事。登板しない日は、トレーニングと睡眠を大事にしています」と、気が抜けない毎日を送っている。

 

 今シーズンの前田投手は、10勝8敗3セーブ、169奪三振の成績をマーク。

 

「印象的だったのはポストシーズン。登板して1イニングしっかり抑えられたのが印象に残ってます。ただ、(チームが)負けてしまい、勝ちきれなかったのが悔いに残ってます。ワールドチャンピオンになりたい気持ちは強まりました」と、早くも来年の目標を口にしていた。

ラグビー田中史朗が明かす「ベスト8」決めた南ア戦の夜

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「大会中は、10回以上泣きました。なんか泣きキャラみたいになってますよね(笑)」

 

 W杯3大会連続出場、バックス陣最年長、166cmの小さな体で桜の戦士たちを牽引した田中史朗(34)。涙もろさは、熱いハートの証しでもあるのだ。

 

 

「最初に泣いたのは、大会前のメンバー発表。スクラムハーフが茂野(海人・28)、流(大・27)と呼ばれた後、ちょっと間が空いたんです。

 

 なぜかというと、発表していたチームマネージャーは、僕と昔からずっと一緒にやってきた方だったので、彼が僕の名前を読み上げようとしたら泣いてしまって……。僕ももらい泣きです。

 

 解散式でも、初めてリーチ(マイケル・31)が泣く姿を見て、グッときちゃって(笑)」

 

 W杯開催国の重圧、年間240日もの厳しい代表合宿に、心が折れそうになったという。

 

「じつは、妻に何回も『もう諦めていい?』と愚痴っていたんです。合宿は、いままでの人生のなかで、いちばんしんどかった。

 

 朝7時半からポジション別練習とフィットネスをやって、午後はチーム練習とフィットネス。夜ご飯を食べて、夜間練習。その後、さらにご飯を食べて寝るんですが、体が痛くて眠れなかった」

 

 迎えた今大会。松島幸太朗(26)や福岡堅樹(27)の活躍に沸いたが、田中は「目立たなかった選手がいてこそ」と言う。

 

「中村亮土(28)や、ジェームス・ムーア(26)のディフェンスが印象に残っています。彼らの頑張りがあったからこそ、得点を取られなかったわけですし。流もそう。彼らがトライの陰で体を張ったからこそ、ベスト8に行けたということを、皆さんに知ってもらいたい。

 

 自分のプレーで印象に残ってるのは、アイルランド戦ですかね。あの試合は20分ぐらいしか出てないのに、7回もタックルに行ってるんです。自分の中で、勝ちたいという気持ちが存分に出た試合じゃないかなと思います」

 

 ラグビーでは、試合後のロッカールームに軽食とアルコールが用意される。ただ、田中には前回大会の苦い経験がある。

 

 南アフリカから大金星を挙げたことに歓喜し、一部の選手が痛飲。次戦のスコットランド戦で敗れ、ベスト8入りを逃した。同じ轍は二度と踏まないという決意から、今大会中は、禁酒を貫いた。

 

「大会中は、一滴も飲まなかったです。ただ、南ア戦後は、妻に『今日は男泣きで飲むから、会われへんよ』と伝えました。

 

 まず、チームみんなでロッカールームで飲んで、ホテルで飲んで、そこから各々に2次会、3次会という感じで。 僕はお寿司屋さんへ行って、その後、裏方さんたちを誘ってカラオケに行きました。久しぶりに朝まで飲んで、あんまり覚えてないんです(笑)」

 

 ベスト8という快挙に、次回大会はさらに期待が高まる。

 

「さらなる上を目指すため、若い選手はどんどん海外に出ていって経験を積んでほしい。4年後は、今まで以上に厳しい戦いになる。

 

 エディー(ジョーンズ前ヘッドコーチ)が言っていたのが、『100m走を100本やれと言うと、海外の選手は「アホか」と言って帰る。でも日本人は、文句を言いながらも走る。そこが日本人のメンタルのすごさだ』と。

 

 やっぱり、しんどいことをやり切る覚悟がある人が代表に入るべき。自分も、4年後も代表として戦うつもりだし、そういう気持ちがなかったら選手として終わってしまう。ただ、あの地獄の合宿をまたやることだけが……(苦笑)」

(週刊FLASH 2019年11月19日号)


ダンプ松本、私生活でもヒール貫いた「母が謝罪して回って…」

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写真はAC

 

 11月6日放送の『すじがねファンです!』(テレビ朝日系)で、ダンプ松本が不遇の生い立ちを語り、指原莉乃が涙を流した。

 

 ダンプは女子プロレスラーになった理由について、父親のDVや借金などがあり、「無茶苦茶だった」と明かす。「OLよりプロレスラーの方が給料がいいと雑誌に書いてあった。頑張ればお金がもらえるからプロレスラーを選んだ」と語った。

 

 

 ヒールとしてハサミ、フォーク、一斗缶など凶器を使って暴れまわったため、アンチから母にまで苦情が行き、実家に石を投げられたという。母は試合会場に行くと、裏側で「うちの娘がごめんなさい」と対戦相手の長与千種らに謝っていたという。

 

 ダンプは「その姿を見るとウルウル来た」と回想。ダンプは母に「今までで1番悪いヒールになるから、迷惑かけるけどごめんね。そのぶん、おいしいものを食べよう」と書いた手紙を渡していたという。

 

 実家には苦情が来る一方、近所の人から母にダンプのサインを求められることも。だが、ダンプは「『家に来たらダンプは優しい』とかはあっちゃいけないから」と、色紙を家の前でぶちまけていたという。そのため母は、近所の人ひとりひとりに一升瓶を持って、謝りに行っていたという。

 

 私生活でもヒールを貫いていたダンプのストイックな姿に、指原は「本当にかっこいい……」と涙していた。

 

 現在は母に心から感謝しているダンプ。2018年5月13日の母の日には「お母さんありがとう。長生きしてね」と感謝をつづっていた。壮絶な経験をくぐり抜けた親子だけに、強い絆で結ばれている。

学生時代はヤクザを半殺しに…「張本勲」人情武闘派79年史

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高校時代、チームメイトだった画家の故・山本集氏(右)と

 

『サンデーモーニング』(TBS系)のご意見番として「喝!」を連発し、辛口コメントはたちまち炎上。御年79歳、甲子園を夢見た男・張本勲の半生は、壮絶そのものだった――。

 

《シェンロンが『1つ願いこと叶えてあげる』って言ってきたら、迷いなくこのコーナーを消してくださいと言う》

 

 

 2019年夏、高校野球・岩手大会の決勝で、佐々木朗希投手を登板回避させた大船渡高校監督の判断について、張本が番組内で苦言を呈すると、ダルビッシュ有(33)がそうツイッターで批判。

 

 ネット上でも「老害」と、論争を巻き起こしたが、張本は世間の批判などどこ吹く風。なぜなら、この男の潜り抜けてきた修羅場は生半可なものではないのだから。

 

 1940年6月19日、広島で生を受けた張本は、段原地区で育った。平屋が密集した地域であり、張本一家の生活は厳しいものだった。従兄弟の張本正熙さんが述懐する。

 

「うちも勲のところも貧乏やった。でも体は大きくてね。故郷の韓国では、祝い事のときに『トック』といって、米の餅を汁の中に入れる料理があるんだけど、勲は5杯食べていたね」

 

 食欲旺盛だった勲少年は、やがて子分を引き連れて歩くガキ大将に成長。

 

「勲が中学生のころ、ヤクザが勲の姉に『映画女優にしたる』と言い寄った。で、私の兄がそのヤクザを捕まえて、勲に『コイツが姉さんを騙した奴や。ワシが見とるけぇ、2人で決闘せい。刃物は持つな。素手でやれ』と。

 

 すると、勲はヤクザを半殺しにしてしもうた。勲は喧嘩では負け知らずだったが、絶対に弱い者いじめだけはしなかった」

 

 武勇伝には事欠かない。

 

「段原地区にはいろんな奴がおって、夏は腹巻、ステテコ、雪駄でうろついていた。

 

 あるとき、そんな男が中学校に乗り込んできて、勲に『投げろ!』と。でも、勲は投げない。チンピラはバットを持ったまま、『おんどりゃあ!』と迫ってきたが、勲はバットを取り上げてぶちのめした。

 

 勲の母親も気性の激しい人やった。そのチンピラが家にやってきたんだけど、『中学生の子供に、大人が何するか!』と、濁り酒をぶっかけて追い返しましたからね」(正熙さん)

 

 張本が野球を始めたのは、小4のころ。もともとは右利きだったが、4歳のとき右手小指と薬指がくっつくほどの大火傷を負った。そのため左投げ左打ちになったのだが、この大火傷が、のちの大打者となるきっかけを作ったのだから、人生はわからない。

 

「当時、近所の旅館にプロ野球選手がよく泊まっていて、見物に行っていたんです。自分たちは苦しい生活なのに、選手はビールを飲んでいる。それを見て、『ワシは職業野球の選手になるんだ』と、決意するわけです」(正熙さん)

 

 高校は、地元の松本商業に進むが、「このままでは職業野球の選手にはなれない」と、一念発起して浪華商業(現・大体大浪商)に転校した。同校の仲間が思い出を語る。

 

「第一印象は『大きいなあ』ということ。彼が打つと、ライトのフェンスを越えて、民家の屋根瓦が割れることも多かった。それを監視する、専門の部員が配置されたくらいですから(笑)」(同期の柿田正義さん)

 

 甲子園に出て、プロに入るために浪商に来た。投手として入部したが、監督の強いすすめで外野手に専念。ところが、“誤解” がその夢を奪った。

 

「張本は『浪商に来たのは甲子園に出られるから。甲子園に出てプロに行く。プロに行って、契約金で親孝行する』の一心だった。

 

 2年の秋だったかな、練習をサボって喧嘩しとる奴がおった。張本は仲裁に入ったんですが、それが新聞に載ってしまった。
仲裁に入っただけなのに、喧嘩をしていたと誤解されて、それで出場停止になってしまった。

 

 出れなかった悔しい思いを、いまも引きずっているのでしょう。だから、佐々木朗希投手の “投げない” 騒動について、あのような発言になったのだと思う」(同期の谷本勲さん)

 

 また「気配りの男で、義理人情に厚い男だった」と語るのは、高校の先輩の肘井康浩さんだ。

 

「いまも変わらんのが挨拶です。待ち合わせの店に必ず先に行って、我々が着くと立ち上がって挨拶するんです。また、入院している先輩の見舞いに行くと、『早くよくなってください』と涙を流す。

 

 ごく最近のことですが、2つ上の先輩の奥さんが亡くなった。で、先輩と張本と谷本君の4人でカラオケに行ったんです。そこで谷本君が、亡くなった(先輩の)奥さんが好きだった、美空ひばりの歌を歌った。その先輩が泣くのはわかりますが、張本も泣いている。本当に人情に厚い男なんです」

 

 こんな人情味溢れるエピソードを聞くと、番組内でのエラそうな発言は照れ隠しなのではと勘繰ってしまうが……。前出の谷本さんが続ける。

 

「高校時代のあいつの鞄には、ユニホームと弁当箱しか入っていなかった。弁当箱も厚みは2cmしかあらへん。おかずは梅干し1個で、あとは、じゃこがちょろちょろ。

 

 僕のは厚みが10cmの弁当箱が2つで、ご飯とおかずに分かれていた。それをあいつは勝手に食っとるんです(笑)。けど、あのときの恩義は覚えていて、プロに行ってから、よう飯に誘ってくれました」

Gカップのアン・シネ「プロテスト合格」はビールのおかげ

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 11月8日に最終日を迎えた「LPGA最終プロテスト」。今年から大きな制度変更があり、豪華メンバーたちによる「生き残り」をかけた闘いが繰り広げられた。

 

 見事、合格したのは21人。そのなかには、あの「セクシー・クイーン」アン・シネ(28・韓国)の姿があった。

 

 

「超ミニスカートに大きな胸でプレーする姿で、2017年の来日以来、一躍脚光を浴びた。昨年は写真集まで発売するほどの人気だったが、なにぶんゴルフ自体の実力がともなわなかった。

 

 優勝経験はないし、今季も予選落ちが多かった。でも、このプロテストに合格しないと、『あのセクシークイーンが日本で観られなくなる』と、結果が注目されていた」(ゴルフ関係者)

 

 合格を果たしたアン・シネはかなり興奮していたという。

 

「あんなに喜んでいる姿は見たことがないですね。『うれしい~』とずっと言ってましたし、とにかくハイテンションでした。大叩きした日の夜には、キリンの一番搾りを飲んだことや、合格祝いに今夜も『おめでとうキリン』を飲もうかな、とかはしゃいでました。

 

 日本のメーカー名を口にして、ちゃんと日本人受けすることを計算するあたりが、彼女らしかったですけどね」(取材した記者)

 

 かくして、Gカップともいわれる彼女のプレーを、来季も日本で観られそうだ。

御嶽海インタビュー「嫁取りより、まずは大関獲り!」

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写真・舛元清香

 

「まぐれでしたね、去年の初優勝は。でも、秋場所の優勝は違う。『少なくとも10勝以上、もちろん優勝も含めて』と狙ったうえでの優勝でしたからね」

 

九月場所で、2度めの優勝を果たした御嶽海(26)。中日までに2敗を喫したものの、13日めに隠岐の海(34)、貴景勝(23)と3敗で並び、優勝決定戦で貴景勝をくだしての “逆転優勝” だった。終盤戦での心理を、本人が解説してくれた。

 

 

「14日め(大関・豪栄道戦)は、立合いの変化で勝ちましたが、あれは優勝を意識したというより、『置いていかれたくない』という気持ちで出た動きです。目の前で隠岐の海関が勝ち、貴景勝関が勝って、『ここで、自分が突き放されるわけにはいかない』と」

 

千秋楽、本割の相手は小結・遠藤(29)。

 

「正直なところ、遠藤関に勝てる気がしなかったんです。前日、遠藤関が、隠岐の海関にきわどい判定で負けていたので、『ここは変化してでも、(星を)取りに来るかもしれない』と。

 

前日、自分が変化で勝っていたので、『今度は自分がされるかも』という考えがあった。そういう警戒をしながらでしたが、勝つことができた」

 

勝利の瞬間に、「自分の優勝を確信した」という。

 

「自分の取組のひとつ前が貴景勝関の取組で、勝った貴景勝関は、土俵下に残っていたんです。自分と遠藤関が仕切っているあいだ、貴景勝関は下を向いてこっちを全然見ない。

 

自分は、ああいう場面では、『目を逸らせてはいけない』と思うんですよ。下を向いて『負けてくれ』と祈っていると、相手に取られても仕方ない。もうあの時点で、勝負はついていたと思うんです」

 

その言葉どおり優勝決定戦では、立合いから一気に出て、貴景勝を圧倒した。

 

そして迎えた十一月場所。七月場所は9勝、九月場所は12勝で優勝。今場所で12勝すれば、大関昇進の目安とされる「33勝」に到達する。だが、本人が気にするのが、“九州の壁” だ。

 

「どっちかというと、九州は相性が悪いですから……」

 

十一月場所は、4年前に新入幕、3年前に新三役と、節目となった場所だが、これまでの4年で負け越しが2回。2018年も「七月場所で優勝、十一月場所での成績次第では大関昇進」という状況のなか、7勝8敗と負け越しているのだ。

 

「寒くなる時期で、1年の疲れも出やすいんですよね」

 

周囲の期待を感じつつも、本人はあくまで慎重だ。

 

「もちろん狙っていきますよ。しかし、まずは10勝。もし九州で上がれなくても、次に繋げるためには、最低でも10番は勝たないと」

 

17場所連続の三役は、昭和以降では、若の里の「19場所連続」に続く2位の記録だ。

 

「17場所か……3年近くですね。もう、いいかげん先に進まないとね。もうひとつ上のステージに行ってみたい。『そうならなきゃいけない』ってことはわかっています」

 

2019年は、安美錦(41)、豪風(40)、嘉風(37)といったベテラン勢が、次々と引退。御嶽海は、入門5年めとはいえ、12月には27歳になる。もはや、若手とは言ってられない。

 

「『自分が頑張らなければいけない』という気持ちは強く持っていますよ。(大関を)狙える位置にはいるわけだし。いいチャンスというのは、そんなに何回もないですから。しっかりと勝ち獲りたいです」

 

あくまで、「大関」という言葉を口にしないのが御嶽海流。だが、強い意志はしっかりと感じられた。1場所15日制の導入以降、「関脇以下で2回優勝した力士5人のうち、4人が大関に昇進」というデータも御嶽海を後押しする。ちなみに年間最多勝争いでも、阿炎と並びトップの45勝(九月場所終了時点)だ。

 

さていま、角界は空前の結婚ブーム。豊山(26)、北勝富士(27)、遠藤と、幕内力士が次々と結婚を発表しているのだ。

 

「大輝(北勝富士。中学時代からのライバルで友人)は、前から聞いていましたけど、遠藤さんは全然知らなかった。それよりもショックなのが豊山関。自分よりも、年下(1学年違い)ですからねえ(笑)」

 

御嶽海関もそろそろ?

 

「そうですね、自分もそろそろ(笑)。でもその前に、大きな目標(大関)に向かっていかないといけないんで。それから考えましょう(笑)」

 

嫁取りはまだ先になりそうだが、次のステージは目前。機は熟した。

 

写真・舛元清香

(週刊FLASH 2019年11月26日号)

ウサイン・ボルト「英語が話せない国でどこかに住むとしたら日本」

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 11月15日、陸上男子100・200メートル元金メダリストのウサイン・ボルトが、都内で行われた『BOLTMobility 日本ローンチ発表会』に登場した。

 

 電動キックボードなどの事業を展開する会社「Bolt Mobility」(アメリカ・フロリダ州)の共同設立者・創立投資家を務めているボルトは、ビジネスでの活躍を宣言した。

 

「常にベストで偉大な成功を収めたいと思っている。陸上だけではなく、外の世界でも成功を追求したい」

 

 日本には10回ほど訪れたことがあり、「友人に言ったことではあるが、英語が話せない国でどこかに住むとしたら日本だとすすめた。それくらい日本の人々は親切」と述べた。

 

 来年開かれる東京五輪について、「楽しみだ」としてこう述べる。

 

「選手としてではなく、1人の観客として参加できる初めてのイベント。スタジアムを見ること、会場のエネルギーを感じること、すべてが楽しみ。選手としてではなく、ファンの1人として観戦を楽しみたい」

 

 ボルトは100メートル9秒58、200メートル19秒19の世界記録を保持している。国内100メートルでは、サニ・ブラウン(9秒97、追い風参考記録以下同)、桐生祥秀(9秒98)、小池祐貴(9秒98)の3人が10秒の壁を突破。ボルトは日本の強みは「リレーだ」とエールを送った。

 

「100メートルで10秒を切った選手もいると耳にしている。台頭してきている選手もいるし、日本の強みはリレーだと思うので、いい成績を残すのでは。日本のファンのみなさんが会場にエネルギーを持ち込んで応援すれば、おそらく日本の選手もいい結果となるはずだ」

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