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大坂なおみ「恋への口出しはNO」新コーチが恐れるクビ宣告

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全豪オープン前に練習する大坂とフィセッテコーチ

 

「まだ、チャンピオンとしての精神的な強さがない」
 1月24日、全豪オープン3回戦。1年前、世界ランキング1位を手にした思い出の地で、15歳のコリ・ガウフに敗れた後、大坂なおみ(22)は、そう振り返った。

 

 大坂を見続けてきたテニスライターは、「また、いつもの “なおみ展開” になってしまいました……」と語る。

 

 

「今季ツアー初戦だったブリスベン国際でも、準決勝で元世界1位のカロリナ・プリスコバ選手を相手に、『あと1ゲーム取れば勝利』というところから逆転負け。

 

 いいときは手がつけられないほど強いが、つまずくとメンタルの弱さを露呈する。今大会も、不安定な試合運びの連続。まったく改善されていません」

 

 ガウフとは2019年に一度対戦し、勝利。今回は大坂自身も、「絶対有利」と認識していた試合だったが、イージーなミスが重なると、試合前の自信は “重圧” に変わっていった。 

 

 2019年12月に、新コーチのウィム・フィセッテ(39)を迎え入れた大坂。フィセッテは、徹底したデータ収集と的確なアドバイスで、ウィンブルドン優勝に導いたアンジェリック・ケルバーをはじめ、4大大会の決勝に4選手を送り込んだ名コーチ。しかし、現状は大坂のデータを生かしきれていない。

 

「2回戦の相手・鄭賽賽選手のように、大坂にはバックのスライスを多用したり、プレーのテンポを遅くするのが効果的。そういった状況でミスが出ると、大坂は勝手にイライラしてくれますから」(前出のテニスライター)

 

 大坂のコーチを務めたのは、2019年だけで、現コーチのフィセッテも含めて4人にのぼる。

 

 サーシャ・バイン(35)と2019年2月半ばに突然の “関係解消” 。その後、ジャーメイン・ジェンキンス(39)が2019年9月までの半年間を務め、フィセッテが登板するまでは、大坂の父・フランソワさんが臨時コーチだった。

 

「バインは、彼女のメンタルの弱さを知って、幼な子に接するように指導していた。だが大坂は、真綿に包まれるようにかまわれたい一方で、大人扱いされないとむくれる “プリンセス型” 。世界ランク1位になっても、バインからは多くのことを助言されすぎて、嫌気が差した。

 

 ジェンキンスは、技術面の指導に定評があり、大坂が憧れるセリーナ・ウィリアムズの元練習パートナー。だが、バインと正反対でかなりストイックだ。

 

 そんなとき、ラッパーのYBNコーデー(22)が大坂の彼氏に。恋人に入れあげ、練習をおろそかにする大坂にジェンキンスが注意すると、私生活に口出しされたことに怒った大坂と冷戦状態に。

 

 両コーチとも大坂との距離感を見誤り、契約解除になった。その点は、フィセッテも注意しないといけません」(マネジメント関係者)

 

 関係悪化の理由が毎回同じなら、大坂からのクビ宣告の方法も毎回変わらない。大坂がツイッターで、「今後、一緒に仕事はしない」と発表することで、周囲は “クビ” を知ることとなる。

 

 今回、父・フランソワさんがコーチ探しに奔走した結果、「今までにいなかったタイプ」というフィセッテの新コーチ就任が実現した。そんな “データの鬼” フィセッテの頭脳に、大坂なおみのファジーすぎる “お姫様気質” が、完璧にインプットされているといいのだが……。

写真・The New York Times/Redux/アフロ

 

(週刊FLASH 2020年2月11日号)


キャンプイン直前、菅野智之が上野由岐子の金言に「はいっ!」

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上野から助言を受ける菅野

 

 1月18日、巨人・菅野智之(30)の姿は、福岡県・久留米球場のマウンドにあった。陽は途切れ途切れで、雨もグラウンドを濡らす。気温は5度ほどだ。

 

 巨人の投手陣を引っ張る存在である菅野は、例年どおりなら、まだ自軍の若手選手たちと暖かいハワイで自主トレを続けているはず。

 

 

 ハワイを1週間早く切り上げ、久留米に来たのにはわけがある。いま、スポーツ界を席巻するトレーナー・鴻江寿治氏(53)が主催する「鴻江スポーツアカデミー」(KSA)の合宿のためだ。

 

「菅野は、東京五輪に向け、並々ならぬ思いを抱いている。だが、昨季は腰の怪我もあって、本調子とはいえなかった。『そんな自分を変えたい』という危機感を抱いて、今年初めてKSAの合宿への参加を決めたそうです」(巨人担当記者)

 

 グラウンドには、ソフトバンクのエース・千賀滉大(26)の姿も。総勢20人のプロ野球選手が合宿に集まった。

 

「千賀は、プロ1年めである2011年オフから鴻江氏に師事し、育成出身ながら、球界を代表する投手に。その姿を見て、多くの選手が『鴻江氏に教えてもらいたい』と集まり、だんだんと大所帯になったんです」(ソフトバンク担当記者)

 

 球界で “鴻江塾” とも呼ばれるこのKSAでは、鴻江氏が提唱する「骨幹理論」に基づいて、体のバランスや骨格などからアスリートを「うで体(猫背タイプ)」と「あし体(反り腰タイプ)」に分類。選手たちは、自分がどちらのタイプかを認識することで、怪我をせずに、最大のパフォーマンスを発揮できる体の使い方を学んでいく。

 

 1月13日からおこなわれた合宿の練習メニューは、朝10時からのウォーミングアップに始まり、坂道の下りダッシュ、キャッチボール、ノック、ピッチング。この同じ練習メニューを6日間続ける。

 

 一見地味なメニューだが、合宿の最大の特徴は、この後にある。夕食後、昼間撮影した投球フォームの映像を、鴻江氏が解析し、アドバイスを送る。そして、選手同士もフォームについて議論を交わす。

 

「夜中まで話し合って、翌日は8時に起床。酒を飲む暇なんてないし、選手たちは『なにかを掴んで帰ろう』と、真剣そのものでした」(同前)

 

 その “夜間練習” で、鴻江氏と並んで大きな存在感を示していたのが、ソフトボール日本代表の上野由岐子(37)だ。

 

 鴻江氏と上野のつき合いは、2008年の北京五輪以来。「413球の力投」で金メダルを獲得した上野は、五輪本番前に鴻江氏から助言を受けた、“愛弟子” なのだ。

 

 菅野は、今回の合宿参加にあたって、「上野さんから『こいつ、うっとうしいな』と思われるくらい話が聞きたい」と話していた。

 

 1月17日の夜、菅野が「怪我もあってフォームを変えなければ……と思っているんです」と上野に相談する場面があったという。「今年は本当に変えるときだと思うよ」と声をかける上野。

 

「でも、なかなか難しくて」(菅野)
「菅野君、それでも変えていかなきゃダメ。やってみないと。ダメなら元に戻せばいいんだから」(上野)
「はい!」(菅野)

 

 そんなやり取りをした翌日。マウンドで投げ込む菅野は、体を少しひねってから左足を上げる、“新フォーム” に挑戦していた。

 

 上野は千賀にも、経験から、こうアドバイス。

 

「(ノーヒットノーランを達成したが)もっといろんな打たれ方をして、もっといい投手、勝てる投手になってほしい」

 

 プロ野球のエースたちが上野に頭を下げ、教えを乞うていた。そんな上野自身の “復活” も気になるところだが……。師匠の鴻江氏は、太鼓判を押す。

 

「『負荷をかけている感覚はないのに、球はびっくりするくらい走っていた』と上野も言っていた。『北京五輪のころに戻れた』と話すほど、手ごたえがあったようです。(東京五輪では)最高のパフォーマンスが生まれると思います」

 

 ソフト界のレジェンドは合宿後、2人にこうエールを送る。

 

「トップとして追われる立場、地位を背負ったものにしかわからない感情、感覚的な話ができた。日本を背負っていく、地位を上げる投手になってほしい」

 

 その金言を胸に、“日本のエース” の座を巡る、菅野と千賀の切磋琢磨は続く。以下の関連リンクでは、KSA合宿の様子を公開する。

 

(週刊FLASH 2020年2月11日号)

妻が語る瀬戸大也「ストレートすぎて新しい人種みたい(笑)」

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「いま思うと、もっと早く彼と出会っていたら、私自身がもっとポジティブな発想で、競技生活を送ることができたのかもしれないですね」

 

 瀬戸優佳さん(24)が、いまや “日本のエース” になった夫との出会いをこう振り返る。

 

 

 2010年のワールドジュニアで、「3m飛板飛込」に出場して銅メダルを獲得し、2011年の世界水泳にも出場した優佳さん。その後、2017年5月に結婚した。夫は、東京五輪競泳男子200m、400m個人メドレー日本代表の瀬戸大也(25)だ。

 

 瀬戸は、脂の乗ったいま、自国開催の五輪に挑む運に恵まれ、日本中の期待という “重圧” を背負う存在だ。

 

「彼は、もちろん金メダルを目指していますが、最高のパフォーマンスを見せてくれると思います。常に発想がポジティブで、『できない』が彼のNGワード。私と正反対の半生を過ごしてきた人ですから」

 

 元選手としても夫を支える優佳さんが、自身の競技人生や彼との馴れ初め、そして素顔を明かしてくれた。

 

「小学校入学前から泳いでいた私は、小1で飛込を始めることになりました。コーチである父は厳しく、礼儀・挨拶がなってないと、ゲンコツが飛んでくるほどでした」

 

 優佳さんの父・崇英さんは、中国・上海市出身の元飛込選手で、26歳で妻・優陽さんと来日。1964年の東京五輪をはじめ、五輪3大会に出場した馬淵かの子さんが主宰する「JSS宝塚スイミングスクール」でコーチとなり、日本国籍を取得して、馬淵姓となった。

 

 きたる東京五輪で6度めの出場となる寺内健(39)や、超新星の玉井陸斗(13)など、飛込のトップ選手を育成しつづけてきた父は、「我が子には甘い」というわけにはいかなかったのだ。

 

「1から10まで、すべてできなければ怒られるので、完璧を目指していくと、『怒られたらどうしよう』というネガティブな発想になってしまっていた。そんな “減点思考” では、『挑戦しよう』という気持ちが生まれませんでした」

 

 それでも、高校選手権を連覇し、世界水泳に出場するなど順風満帆な競技人生を送っていたが、立命館大進学後は、腰の怪我に悩まされることに。

 

 2014年、大学2年のとき、そんな優佳さんに人生を変える出会いが。

 

「試合で宝塚(兵庫県)に来ていた彼を友人に紹介されて、食事をしたんです。彼は、前年の世界水泳で優勝して注目され、『次のリオ五輪は』と、期待されている存在でした」

 

 取材中に見せる人懐っこい笑顔が印象的な瀬戸は、当時の優佳さんにどう映ったのか?

 

「いい意味で、“無邪気で子供っぽい少年” でした。私に『好意がある』のを隠し切れない、メールの文面とか……」

 

 思い出すように笑みを浮かべて、優佳さんが続ける。

 

「だって、次に会う約束をするメールも、『2人で行きましょう!』とストレートに書いてあるんです(笑)。もう、新しい人種に会った気がして、私も『いいよ!』と返して……」

 

 優佳さんに、その “新鮮さ” は、どう作用したのか?

 

「彼と話していて、育った環境の違いが、人間性に影響することがわかりました。大也は、『親に怒られたことがない』って言うんです。『怒られず褒められて』あれだけの選手になるんだから、すごい。うちとは真逆の教育方針でした」

 

 瀬戸自身も、こう語っている。

 

《家でネガティブな発言をすると、「なぜそんなことを言うのか」と父に注意されました。悔しい結果に終われば、母が「(萩野)公介君がいるから強くなれる」と前向きな言葉をかけてくれた。我が家では「できない」はNGワードでしたね》(「日経ビジネスアソシエ」2018年8月号)

 

 このポジティブ思考が、瀬戸のバックボーンなのだ。

 

2018年2月、妊娠6カ月の優佳さんと夫・大也選手

 

 一方、父の教育で礼節や忍耐力が備わっていた優佳さんにとって、自分になかった「積極性」を発揮している瀬戸は、「生きていくうえで大切な人」に変わってきていた。

 

 しかし2016年。瀬戸は金メダルを有力視されて臨んだリオ五輪で銅メダルに終わった。

 

「直後の落ち込みようから、私も重い気持ちだったんですが、帰国時に『俺、4年後にヒーローになるから近くで見ていて!』と笑うんです。私が『この人すごい!』と思った瞬間でした」

 

 優佳さんの中で、「この人と離れたらいけない」という感覚は “確信” となり……。

 

「自分が選手として五輪に出たいというより、『大也をサポートしたい』という気持ちになりました。『落ち込むことがあっても、彼と一緒にいたら幸せにしてくれる』と」

 

 2017年5月24日、瀬戸の23歳の誕生日に婚姻届を提出。同月に優佳さんは現役を引退し、翌年6月に長女・優羽ちゃん(1)を出産した。

 

 3年近い結婚生活のなかで、優佳さんは瀬戸の “スーパースターぶり” に、何度も遭遇したと苦笑する。

 

「まずは結婚前の2017年、彼がいきなり『断食ダイエットする』と言いだして。麻布のキックボクシングジムに通いはじめたんですが、彼は2日でギブアップしちゃって、すぐにハンバーガーと牛丼を食べていました(笑)。結局、3日間完遂したのは私だけ」

 

 次に、愛犬・ラフちゃんが家族に加わることになった、2018年4月のエピソード。

 

「ホームセンターに家具を見に行ったとき、ペットコーナーで急に、『運命感じた!』って大也が言いだして。妊娠中だった私は当然反対で、彼も一度は車に戻ったんですが、『もう1回、見に行こう!』って始まって……」

 

 夫妻は、1時間以上の激論を交わし、最終的には「じゃんけん」で妻が敗退。

 

「私もアスリートの血が流れているので、『勝負に負けたら仕方ない』って認めちゃったんですね(笑)」

 

 そして、公式記録にも残る、2018年のトライアスロン出場。

 

「シーズンオフに、『佐渡国際トライアスロンに出る』って言いだして……。通常の2倍の距離のレースですよ。さすがに、ご両親まで反対したんですが、『俺は出るから』って聞かない。

 

 それで、もう少しおとなしいレベルの『九十九里トライアスロン』への出場で、“手打ち” になりました(笑)」

 

 結果は、約700人中93位という普通の成績だった(スイムは言うまでもなくトップ)。

 

 こんな “突っ走っちゃう” スーパースターを、優佳さんは「100%は阻止することなく、許しながら、大目に見ながら」コントロールしている。ときにはストップをかけながら。

 

 そして1月18日、東京五輪イヤーの初戦、北京でのチャンピオンシリーズでは、200mバタフライで、12年ぶりに日本記録を更新する1分52秒53のタイムで優勝。

 

「五輪では、いままで見たことない主人の笑顔を見たいですね。以前と全然違うのは覚悟です。家族が出来たことで、責任感が出て、バシッと目標が揺るがないんです」

 

 パパとなった日本競泳界のエースが、4年前の雪辱に燃えている。

取材&文・鈴木利宗

 

(週刊FLASH 2020年2月11日号)

マラソン新ルール制定で「現代のシューズ名工」消滅の危機

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特注靴で優勝した松田瑞生(写真:森田直樹/アフロスポーツ)

 

 1月31日、世界陸上競技連盟(世界陸連)は、シューズに関する新規則を発表した。
昨年から今年にかけて、ナイキの「ヴェイパーフライ」シリーズで好記録が連発し、「厚底シューズ問題」で揺れていた陸上界。

 

 世界陸連が設けたシューズに関する新規則の要点は以下の3つだ。

 

 

(1)レースの4カ月前からオンラインもしくは店頭で購入できるもの(ただし、医学的理由でカスタマイズされたものは許可)
(2)ソールの厚さは40ミリ以下
(3)複数の剛性の埋め込みプレートは使用できない

 

 これが2020年4月30日以降に適用されるようになる。
 ナイキの「ヴェイパーフライ」に関しては、現状発売されているモデルは使用可能。昨年、非公式レースで人類史上初のマラソン2時間切りを達成した際のモデルは使用不可となった。

 

 当初、「厚底規制になる」と言われていたシューズの新規則だが、発表された内容はシューズの性能そのものよりも、「高性能シューズの独占解消」に重点が置かれた形となった。

 

 そこで、思わぬところに影響が及ぶかもしれないという。

 

 1992年バルセロナ五輪、1996年アトランタ五輪の2大会連続でメダルを獲得した有森裕子。2000年シドニー五輪で金メダルを獲得した高橋尚子。2004年アテネ五輪で金メダルを獲得した野口みずき。この3人に共通する1人の人物がいる。シューズ職人の三村仁司氏だ。

 

 1967年にオニツカ(後のアシックス)に入社し、1974年からトップアスリートに向けた特注シューズの製造を始めた。「選手の気持ちを理解した靴づくり」が評価され、先の3人をはじめ日本の多くのトップランナーのシューズ作成にかかわってきた。

 

 特に2000年シドニー五輪前に高橋尚子に作ったシューズは職人魂にあふれている。本番用シューズの完成までに作った試作品は45足。本番コースの路面が硬いことを考慮し、中敷きや靴底も調整。さらに左足が右足より長いことがわかり、左足の靴底をやや薄くした。結果、そのシューズを履いた高橋は金メダルを獲得した。

 

 その後、三村氏は厚生労働省より「現代の名工」の表彰を受け、日本のシューズ界の第一人者になった。アシックスを退社後は自身の工房「M.Lab(ミムラボ)」を設立し、現在は「ニューバランス」の専属アドバイザーを務めている。

 

 実は、1月26日の大阪国際女子マラソンで、東京五輪代表選考の設定記録を上回って優勝した松田瑞生も、三村氏が手がけたニューバランスのシューズを履いていた。だが、今回の新規則は特注シューズの使用を制限する内容となっている。今後、「ある選手のためだけに特別に作られたシューズ」をレースで使用するのは難しくなるとみられる。

 

 マラソン黎明期から日本人と特注シューズのつながりは深い。昨年の大河ドラマ『いだてん』(NHK)で、主人公の一人だった金栗四三も、足袋屋に特注の「マラソン足袋」を作ってもらった。2017年のドラマ『陸王』(TBS系)でも、シューフィッターと選手のやり取りが重要なシーンとして描かれたが、そういった夢とロマンもこの新規則で失われてしまうのかもしれない。

東京五輪カヌー男子「足立和也」レーシングカー設計会社の協力も

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「環境を変えて、逃げ場がないように、すべてを断ち切ってここに来ました」

 

 多くの選手が、競技環境の整っている海外を拠点に活動するなか、足立和也(29)は、あえて国内で、しかも山口という地方で実力を培ってきた。

 

 

 そして2016年のW杯では、カヌー・スラロームの男子カヤックで、日本人として初めて表彰台に上り、国内で腕を磨いても世界と戦っていけることを証明した。

 

 カヌー本体にも、こだわりを見せる。レーシングカーの設計・開発などに実績があり、由良拓也氏が社長を務めるムーンクラフトがサポート。つまり、“純日本” で五輪に臨むのだ。

 

「スラロームは、ゲートをくぐりながら、タイムを競う競技ですが、ゲートと選手の距離が5mmぐらいの所を通ります。そういった距離感も見てほしい。目標は、小学生のころからの夢だった五輪でのメダル獲得です!」

 

●足立和也の “金言”
「日進月歩」

 

●一問一答
――大切にしているものは?
「旧500円玉です。2016年のW杯で表彰台に立ち、帰国して初めて買い物をしたお釣りでもらったんです。ずっと財布に入れて、大切にしています。『100円足りないな』と思っても使わずに(笑)。福を呼んでいると思います」

 

――愛読書は?
「漫画『エリア88』が好きです。『進撃の巨人』のなかの、『何かを成したいなら、犠牲を払わなきゃだめだ』という言葉が格好いいなあと思っています」

 

――自分へのご褒美は?
「お寿司。山口は魚が安くて、美味しくて! とくに光りものが好きですが、ここに来て好きになったのはヒラマサです」

 

――マイブームは?
「携帯ゲームです。バトルロワイヤルゲームの『PUBGモバイル』というのにハマってます。じつは、インドア派なんです(笑)」

あだちかずや
1990年10月23日生まれ 神奈川県出身 175cm 70kg 3歳時にカヌーを初経験。小学生時代、高校の日本代表の合宿を見てから、カヌーの格好よさに目覚めた。駿河台大を3年で中退後、山口県萩市を拠点に活動。山口県体育協会所属

 

写真・津高良和
取材&文・北浦勝広

 

(週刊FLASH 2020年2月18日号)

元なでしこ大野忍、引退後は指導者の道へ「1人でも多くに伝えたい」

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 サッカー元日本女子代表の大野忍が、2月5日に「引退します!!!」とのタイトルでブログを更新。

 

 同日、2019年シーズンで退団したノジマステラ神奈川相模原の公式サイトで引退を発表しており、ブロクではこれまでに所属したクラブへの感謝などを投稿した。

 

 初めて所属した日テレ・ベレーザ(現:日テレ・東京ヴェルディベレーザ)について、《ベレーザにはたくさんの素晴らしい選手たち(お姉様方たち。笑)に叱られ、可愛がられ、成長させてもらいました》とコメント。ベレーザでの経験が個人タイトルや代表につながったとしている。

 

 

 10年ほど所属したベレーザから退団し、自身にとって初めての移籍先となったINAC神戸レオネッサへについては、受け入れてくれたことに感謝しつつ《話すことはできませんが思い出もたくさん》と振り返った。

 

 その後、オリンピック・リヨンなど海外のクラブにも所属。こうした海外での経験について《苦しい時期、楽しい時期、色々でしたが経験しといてよかったと感じます》とした。帰国してから所属したクラブにも感謝の言葉を述べている。

 

 今後は指導者への意欲を見せたが、《自分にサッカーの楽しさ、難しさなどを教えてくれたからこそ、辞めたら自分も教えていきたいと考えるようにもなりました》と指導者を目指したきっかけに言及している。

 

《選手で学んだ技術、経験、そして、指導者から学んだサッカー知識など、すべてをこれからは自分が指導者として1人でも多くの子供たち、選手たちに伝えていきたいと思っています》

 

 2011年のドイツFIFA女子ワールドカップで大会優秀選手に選出され、国内リーグ182ゴールを達成するなど、選手としての実績は申し分ない。今後は豊富な経験を指導に活かしてもらいたい。

33歳で優勝「徳勝龍」生後6カ月で体重10kgに親がたまげた

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優勝パレード時の徳勝龍(写真・JMPA)

 

 大相撲初場所で、劇的な「幕尻優勝」を飾った徳勝龍(33)。千秋楽から一夜明けた1月27日、会見で「生んで育ててもらって、それが当たり前とは思っていない。感謝の気持ちを忘れずにやりたい」と両親への感謝を述べた。

 

生後6カ月のころ

 

「本当に『たくましく育ってほしい』という思いでした。生まれたときの体重は3860g。でも、成長がとても早くて、生後6カ月には10kgを超えていたんです」

 

 そう語るのは、徳勝龍の母・青木えみ子さん(57)だ。父・順次さん(73)との間に生まれた幼子の成長ぶりには、当時から驚かされていた。

 

 

「小さいころから、明るくて、ひょうきんな子で、いつも人を笑わせていました。甘えん坊で、すぐ人の膝の上に座ってくるんです。3歳ぐらいまで、座ってきましたが、そのころはもう20kgくらい。重かったです(笑)」

 

 その後も順調に体が大きくなり、小学6年生で体重は100kgを超えた。角界では、苦節11年で幕内最高優勝を掴んだ “遅咲きの男” だが、子供のころの成長は、とんでもない早熟だったのだ。

 

 相撲との出会いは、小学校4年生のわんぱく相撲だった。中学生のころには、朝青龍などを輩出した名門・明徳義塾高校の合宿に参加。その縁もあり、高校は明徳義塾に越境入学した。

 

 だが、徳勝龍本人が「どうしてもやりたい」と熱望していたのは、相撲ではなく野球だったという。

 

「野球は小学校2年で始めて、捕手でした。体が大きいので、肩は強い。でも打撃は、パワーはあるけどアウトかホームランかというタイプ。だって、ゴロを打っても走れませんから(笑)」(えみ子さん)

 

 元球児の心がうずいたのか、優勝後、徳勝龍は「阪神ファンで、捕手だったので、(始球式ではなく)“捕球式” をやりたい」と志願。えみ子さんも「藤浪(晋太郎)投手の球を受けてほしい」と期待する。

 

 来場所、ほかの力士たちからマークされる徳勝龍だが、えみ子さんが愛息の意外な “弱点” を教えてくれた。

 

「大きい体をしていますが、小さいころから虫が苦手なんですよ。それも、蟻ですら嫌がっていて、『怖い、怖い』と言いながら踏んづけてしまう(苦笑)。虫が怖いのは、今もだと思います」

 

 土俵の上に蟻だなんて、“あり” 得ない展開にならなければ、来場所も優勝争いができるかも。以下の関連リンクでは、徳勝龍の半生を写真とともにプレイバックする。

 

(週刊FLASH 2020年2月18日号)

長友佑都、専属料理人を4日で挫折した三瓶に「楽しい道を選んで」

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 2月4日放送の『しくじり先生 俺みたいになるな!!』(テレビ朝日系)に出演した、お笑い芸人・三瓶が、現在レギュラー番組0本で、貯金を切り崩す毎日だと語った。

 

 養成所のNSCを卒業してまもない2001年、「三瓶です!」のギャグを武器に、同期の誰よりも早くブレークした三瓶。

 

 

 2002年には、年間184本もテレビ出演するほどの超売れっ子になり、本人もその人気ぶりに「自分でも当時引いてました(笑)」と振り返る。

 

 平成ノブシコブシ・吉村崇は、新宿にある劇場「ルミネtheよしもと」は三瓶のために作られたものだと明かし、当時の人気を裏付けた。

 

 大ブレークし、一時代を築いたが、最近はその活躍を目にする機会も少ない。その理由を「イヤなことからすぐに逃げ出してしまう性格」だと話す。

 

 当時は多忙すぎて、自分の時間が取れないことに嫌気がさし、マネージャーからの電話に出なくなった。単独ライブを提案されると、「だったらこの世界やめます!」と宣言するほど強気だった。

 

 イヤなことから逃げまくった結果、仕事は激減してしまう。

 

 そんな三瓶を見かねて、長年付き合いのあった長友佑都・平愛梨夫妻から「トルコに来て私達の料理を作らない?」との誘いを受けたという。

 

 仕事にマンネリ感を抱いていたため、芸能活動を休止し、長友選手専属の料理人になるべくトルコ移住を果たす。ところが――。なんと滞在4日目にして心が折れてしまう。

 

 料理人を目指すも、言葉の壁や食事が合わないなどのストレスがたまり、「ここから逃げたいという思いが強くなった」と心境を吐露した。

 

 この思いを長友選手に打ち明けたところ、「三瓶さんの楽しいと思う道を選んで下さい」と優しく答えてくれたそうで、2カ月後に「満面の笑みで帰国しました」と話していた。

 

 番組の最後には「いただいた仕事は一生懸命やる」と宣言していたが、いまようやく新たなスタートを切ったということなのだろう。


美しすぎるミカエル・ミシェル騎手の「倒せ、藤田菜七子!」

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「この国に恋をしました」
 そんな言葉を残して、日本を去って5カ月。“美しき黒船” が戻ってきた。フランス人騎手のミカエル・ミシェル(24)だ。

 

 3月末までの短期免許を取得して、川崎など南関東を中心に地方競馬で騎乗している。

 

 

「2019年8月に、JRAの招待を受けて初来日し、1勝を挙げました。それで、日本が大好きになったのです。今回の来日も、彼女の強い希望で実現したものです」(競馬記者)

 

 1月27日からの5日間は、川崎競馬で騎乗。29レースで2勝、2着2回、3着6回という好成績だった。

 

「慣れないダートコース、小回りの競馬場でしたが、思った以上にうまく対応できていました。彼女自身の騎乗技術はもちろん、バックアップの体制もしっかりしていますから、今後さらに活躍するのは間違いない」(同前)

 

 2014年にフランスでデビューしたミシェルは、2018年には72勝を挙げて、同国内の「女性騎手年間最多勝記録」を樹立した実力派。上半身がぶれない美しいフォームが持ち味で、2月4日に高知、2月22日に佐賀、3月12日に名古屋での女性騎手招待レースに参戦予定だ。

 

 今回の来日では、元騎手のF・スパニュ氏がエージェントとしてつくうえに、日本競馬界で絶大な力を持つ「社台グループ」が支援している。1月29日に挙げた初勝利も、同グループの所有馬だった。

 

 将来的には、「JRA通年免許の取得を目指す」というミシェル。昨年から日本語の勉強を始めており、サインも「ミカエル」とカタカナで書けるまでになっている。

 

 来日直後、和食店で納豆に挑戦した動画を海外競馬専門サイトで公開すると、再生回数は2万回を超え、世界中から注目を集めている。

 

「通年免許の取得には、日本語のマスターが必須。過去には、超一流の外国人騎手でも、それで落とされたことがあります。

 

 もし、JRAで乗るとなれば、かなり活躍するでしょう。2019年改定された、女性騎手は負担重量2kg減という “(藤田)菜七子ルール” のメリットも大きいはず」(競馬関係者)

 

 そうなれば注目されるのが、藤田菜七子騎手との対戦だ。

 

「ミシェルの全レースをチェックするほど、藤田騎手も関心は高い。『いまはお互いに応援』ということでしょうが、いざライバルとなれば話は別です。ああ見えて『中身は、男』と言われるほど、気が強い藤田騎手ですから、燃えるでしょうね(笑)」(同前)

 

 2月28日にサウジアラビア、3月8日にスペインでのレースに両騎手が参戦する。2019年の札幌での対決は、ミシェルの3勝1敗。果たして今回は――。

 

(週刊FLASH 2020年2月18日号)

ゴルフに批判的だった「張本勲」巨人でカモにされ態度一変

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『サンデーモーニング』(TBS系)のご意見番として「喝!」を連発し、辛口コメントはたちまち炎上。御年79歳の張本勲は、通算最多の3085安打504本塁打319盗塁を達成した、名選手だった。

 

 現役時代の逸話は、記録だけでなく、記憶にも残るものが多い。当時を知る、スポーツ紙記者が語った。

 

 

「張本さんには、『プロ野球選手たるもの、ゴルフをやったらダメ』という持論がありました。その真意を、こう話していました。

 

『ゴルフをやり始めると、朝早くからゴルフ場へ出かけて、長いラウンドをまわり、体を休ませる暇がない。シーズン中に体を酷使したのだから、オフに入ったら翌シーズンに備えて、体力維持トレーニングを続けながら、体を休ませることに専念しなくてはいけない。

 

 あの大杉(勝男、東映の強打者)を見てごらんよ。ゴル
フをおぼえた途端、バッティングがまったくダメになった。打者のバットスウィングとゴルフスウィングとでは、腰の回転が異なる。ただし、投手はゴルフをやってもいい。なぜなら、投球動作の腰の回転と、ゴルフスウィングの腰の回転は一緒だから』」

 

 さらに、「ゴルフなんか馬鹿じゃねぇか。止まったボールを打って、穴に入れるだけなんだから、誰にもできるだろ」とも語っていた張本。その言葉どおり、ゴルフを一切しなかった。ところが……。

 

「日拓時代か日ハム時代か、当時のオーナーが選手に『ゴルフをやろう』と誘ったことがあります。すると、それまで『ゴルフ禁止』を持論にしていた張本が、なんとゴルフクラブを持ってやってきた。あれには驚きましたね、言動不一致さにあきれ返った(笑)。

 

 その後、巨人に移籍すると、今度はゴルフに夢中になります。でも巨人の選手は、みんなゴルフが上手い。毎度、張本さんはカモにされていました。

 

 それが、よほど悔しかったのでしょう。『いつか見返してやる』という一心で、引退後ゴルフにのめり込むようになり、次第にメキメキと上達。解説者になる頃には、玄人なみの腕前になっていました。

 

 ゴルフについては、かつて言っていたことと、やったことがまるで違いますが、そのギャップの激しさにも、張本さんらしい、負けん気の強さを感じます」

世界最弱レスラー「府川唯未」くも膜下出血から生還、2児の母に

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現在住む逗子市の近辺、あぶずり港の海辺にて

 

 小柄な体格とキュートなルックスで、やられても、やられても、立ち向かう――。1990年代、「負けること」で人気になったレスラーが、府川唯未だった。

 

 16歳のときに全日本女子プロレスでデビューしたが、2戦めで鎖骨を骨折した。

 

 

「先輩にいただいたコスチュームがゆるくて、ズレてきたんです。下着が見えちゃって、気を取られていたら、受け身を取り損ねて。間抜けな骨折の仕方だったので、それで名前を覚えてもらいました(笑)。

 

 安静にしていれば3カ月で治ったのに、新人だから先輩の雑用なんかに追われて、復帰するのに1年半もかかりました」

 

 年間300試合をこなした。

 

「数えきれないほど試合をしたのに、勝ちは数えるほどしかなくて。大きな選手にマウントを取られると返せなかったし、手足も短いから、ロープまでほかの選手の倍かかる。まわりからは『世界最弱レスラー』と呼ばれていました。本当に悔しかった」

 

 1998年、アジャコングが旗揚げした団体「アルシオン」に移籍。関節技に磨きをかけ、徐々に勝ち星を増やしていった。だが2000年、試合中にくも膜下出血を起こして入院。翌年、現役引退を余儀なくされる。

 

「試合前から頭痛が酷くて、終わったら病院へ行くつもりだったんです。目が覚めたら病室で、医師からもうプロレスができないと聞かされました。プロレスしかなかった私は、空っぽの人間になったような気がして……」

 

 虚しさを埋めてくれたのは、プロレスラーの田中稔だった。

 

「下半身不随の可能性もあったんですが、彼は『どんな状況になっても、一緒にいるつもりだった』と言ってくれたんです」

 

 2002年に結婚。現在、2児の母として育児に励むかたわら、プロレスの解説、ファンイベントなどの活動をおこなう。2016年には乳頭ガンの手術を受けた。

 

「いまも3カ月に1度の定期検診がありますが、元気にやっています。長女も次女もプロレスが大好き。レスラーを目指さないように、ダンスやピアノを習わせて意識をそらせています(笑)。

 

 普通に大学に行って、就職して、結婚してくれたら嬉しいけど、でももし『本気でプロレスをやりたい』と言われたら、応援しちゃうのかな」

 

ふかわゆみ
1976年5月22日生まれ 神奈川県出身 小学2年のとき「クラッシュ・ギャルズ」に憧れ、プロレスラーを目指す。1993年、高校を中退し、全日本女子プロレスデビュー。アイドルレスラーとして人気を集めたが、2000年、試合中に頭部に大怪我を負い、翌年引退。現在は、2児の母として子育てに奮闘中。また、昨年、自身の大怪我の経験からプロレス事故防止・抑止セミナーを開催。夫はプロレスラーの田中稔

 

(週刊FLASH 2020年2月4日号)

高校バレー、キューバ人女子留学生の「MAX320cmジャンプ」

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 身長183cmは、女子バレー選手にとって、けっして高身長とはいえない。だが、ひとたび彼女がジャンプすると、その最高到達点は320cmに達する。

 

「春の高校バレー」で準優勝に輝いた、宮城県の古川学園高校女子バレー部。原動力となったのが、キューバ人留学生のバルデス・メリーサ選手(17)だ。MAX320cmの驚異的なジャンプから打ち下ろすスパイクが、彼女の武器だ。

 

 

「歴代の全日本女子でも、太刀打ちできないジャンプ力。男子エースの石川祐希が、最高到達点350cmです。その差が30cmしかないなんて、驚きました」(スポーツ紙記者)

 

 そのジャンプで、バスケットボールのリングも両手で掴むことができる。

 

「2~3年後には、さらに最高到達点が330cmまで伸びるはず。世界トップ3のアタッカーになれる素材です」(古川学園・岡崎典生監督)

 

 そんな彼女は、ただの “助っ人” ではなく、日本語で「日本に帰化して、五輪に出たい」と話す。U18日本代表強化合宿にも参加済み。東京五輪は無理でも、4年後のパリ五輪には、“国境” もひとっ跳びだ!

(週刊FLASH 2020年2月18日号)

亡くなった野村克也さん、本誌に語っていた「監督人生」

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 2月11日、プロ野球で戦後初の三冠王に輝いた名キャッチャーの野村克也さんが死去した。84歳だった。

 

 奇しくもプロ野球元年(1935年)に誕生した野村さんは、選手として27年、監督として24年グラウンドに立ちつづけた。その間、獲得したタイトルは数知れず。

 

 

 誰よりも球界を熟知しており、本誌のインタビューには、常に球界の現状の危機を訴えていた。その理由として、「プロは専門家でなければいけない。だが、残念なことに専門家がいない。二流だらけ。それは選手はもちろん、監督も同様である」と話している。

 

 1970年、南海の選手兼任を皮切りに、ヤクルト、阪神、楽天と4球団で監督を務めた野村さん。本誌の取材にこう語っている。

 

「長いこと監督をやったけど、全知全能というか、すべてを振り絞ったのはヤクルトだけ。ほかはもうやる気なし! これは本当の話。監督を引き受けるにあたっては、自分の野球観、野球論、野球思想を球団としっかりすり合わせなければいけない。この部分で俺とヤクルトは合ってたし、球団も後押ししてくれた。

 

 たとえば、アリゾナ州でやった就任1年めの春季ユマキャンプ。周りに遊ぶところがないから1カ月、まさに24時間野球漬けで、野球を教え込むには最高の環境だった。

 

 キャンプでは監督の考えを教え、過去の反省をする。この時期がいちばん大切なんだよ。選手も真剣に取り組んでくれて、その後の好成績につながったことは間違いない」

 

 ヤクルトでは、かつての弱小球団を3度の日本一に導き名将の名をほしいままに。だが、次にチーム再建を託された阪神では3年連続の最下位とさんざんな結果に終わった。

 

「高知の安芸でキャンプをやったんだけど、ミーティングで話をしても、ちゃんと聞いているのは2、3人だけ。あとは、時計ばかり見ている(苦笑)。『そんな理屈はいいよ、早く終われよ』とばかりにね。

 

 また、キャンプ中にはOB会の連中が激励と称してやってくるんだけど、これが厄介だった。彼らは選手を連れ回す。大事なキャンプのときにね。で、阪神は人気球団だから街に出ればちやほやされるし、OB会の連中にはいいところに連れていってもらえるし。

 

 だからミーティングで時計ばかり気にしているんだよ。阪神は、こういうところから改革しないと絶対に強くならないと思った。人気と伝統に任せているだけだからね。でも、改革はできなかった。野球観も合わなかったし、ハッキリ言って阪神に行ったの、俺の野球人生で大失敗だったよ」

 

 つねに “弱小球団” ばかりを引き受けてきた野村さんにとって、長年の経験で培った名監督の条件とはなにか?

 

「古い話になるけど、V9時代の巨人・川上哲治監督にはすごみを感じた。ONを中心に、あれだけのメンバーが揃っていたら、誰が監督をやっても勝てるという人がいたけど、そうじゃない。チームの戦い方は徹底していたし、ミーティングも頻繁にやっていたみたいでね。

 

 同じ捕手ということで仲がよかった森祇晶に『どんなミーティングをやってるんだ?』と聞いたことがあるが、野球の話はいっさいしないということだった。大袈裟に言えば人間学や社会学の話だという。

 

 あの人は、オフに福井県の永平寺に座禅を組みに行っていたらしいけど、そういうことも力になっていたんじゃないかな。選手も無意識のうちに認めるわな。厳しさというか、修行に行っているわけだから。

 

 となると、選手も楽はできない。苦しいことは避けられない。自然とそうなるよ、チームは。でも阪神や楽天の選手はそうじゃなかった。改革まで持っていく余裕すらなかったよ」

 

 そんな野村さんは、野球人生の幕の下ろし方にこだわりがあったという。

 

「監督業の醍醐味、喜びというのは、それは優勝。胴上げは何度してもらってもいいもの。俺は野球場で死ぬのが理想だった。日本一になって、みんなに胴上げされ、それが終わったとき静かに息を引き取っていた、というね(笑)。これがいちばんいい死に方だと思っていたんだけどね」

亡くなった野村克也さん、野球人生にはいつも「ボヤキ」が

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 亡くなった野村克也さんが本格的に野球を始めたのは中学3年生のときだった。

 

「中学3年の1年間、野球をやらせてくれたら進学をあきらめ働きに行く」との交換条件を親に出した。結局、高校に進学し野球を続けたが、親は大反対。バットを隠したり、野球部の部長に「やめるように説得してくれ」と言いにいったという。

 

 

 その後、野球経験ゼロの教師のすすめで、南海にテスト生として合格。鶴岡一人監督の「ああいうモサーッとした選手が、今に大物になるぞ」という鶴の一声で採用決定となった。

 

 ちなみに入団テストをすすめた教師は住職。プロ入りを反対する母親に対し、「プロで失敗したら、責任を取る」と言い、失敗したら寺に住まわせようとしていた。

 

 契約金はゼロで、1年めの年俸は8万4000円。月にすると約7000円。これは当時の民間企業の高卒初任給とほぼ同じ。このうち、寮費が3000円。寮の朝飯はご飯とみそ汁だけだから、卵は別料金。それが月1000円。残り3000円のほとんどを家に仕送りするから、外出もできなかった。
 

 背広を買う金がなかったため、1年間はどこに行くにも学生服。5年めまで母も働いていたという。

 

 そんな苦労人の野村さんは、名言やボヤキで有名だった。味のあるセリフから、野村さんの人柄をしのびたい。

 

●【ボヤキ1】「夫婦生活は忍耐です。いい加減、自由契約にしてくれ……」

 

 2005年12月、沙知代夫人、息子・克則と3人でトークショーした際、サッチーの「この人たちは私の支配下選手」という発言に続いてこう話した。

 

●【ボヤキ2】「母親の顔だと思って、思い切り打て」

 

 1997年2月、ヤクルト時代に息子・克則に打撃指導した際の発言。

 

●【ボヤキ3】「固定観念は悪。先入観は罪」

 

 日本球界には、シュートの投げすぎは肘を壊すという偏見があった。しかしノムさんがシュートの達人・西本聖に聞いたところ「そんなのウソです」との答え。それで川崎憲次郎、吉井理人など多くの投手にシュートを覚えさせ、“再生” に成功した。

 

●【ボヤキ4】「失敗と書いて、せいちょう(成長)と読む」

 

「なぜなら、人は失敗することで多くを学ぶからである。失敗は成長を生み出すのだ」。著書『弱者の兵法』(アスペクト)より

 

●【ボヤキ5】「それは評論家として敗北だ」

 

「テレビの解説でスクイズした後に『やると思いました』なんて言うヤツがおるけど、先に言えってんだ。結果論は絶対に言っちゃいけない。それは評論家として敗北だ」

 

●【ボヤキ6】「長嶋は、監督としては失格である」

 

「長嶋というのは対マスコミということでは天才的である。誰にも真似できない。だが、はっきり言うが、監督としては失格である。選手を育てられないし、管理もできない。采配にいたっては勘とひらめきだけである。悪く言えば、ピエロなのである」。著書『巨人軍論』(角川書店)より

 

●【ボヤキ7】「仕事なくなったら、運転手させてよ」

 

 2007年9月、ヤクルト時代の教え子、日ハム稲葉篤紀に。「お前はオレが指名してやったんだからな。それを一生忘れるな。今じゃ1億円プレーヤー。仕事なくなったら、運転手させてよ。北海道に行くから」

 

●【ボヤキ8】「外野手出身に名監督はほとんどいない。外野手は細事、小事に気が回らないからだ」
 

 2016年、本誌のインタビューで。続けて、「高校、大学、プロとエリート街道を歩んできた人が監督になると、控えや二軍の選手まで目が届かない」とも。

 最後に同インタビューから、ボヤキならぬ「名言」を。

 

「野球の中心は投手。0点に抑えれば負けはない。それと、バッテリーを中心とした内野をダイヤモンドっていうでしょ。やっぱり、ダイヤモンドが輝いていなきゃダメだわな」

野村克也さん、名選手への道を築いた「毎日2時間の素振り」

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 亡くなった野村克也さんは、根性の人だった。
 野村さんは1954年、南海にテスト生として入団。さして期待された選手ではなかった。それが選手としては戦後初、捕手として初の三冠王に輝くなど、一流選手へと成長していった。

 

「ワシはテスト種目で遠投だけ自信がなかった。で、一投めが合格ラインに届かない。気の毒に思った先輩が『前から投げろ!』と。それで5メートル先から投げてようやく合格。インチキしての入団だったんだよ(笑)」

 

 

 一軍定着には時間がかかったが、野村さんはプロ入り後、決めたことがあった。「やめるとき、悔いは残したくなかった」からと、毎日欠かさず取り組んだのが素振りだった。

 

「毎日、最低でも2時間は振ったけど、単純でおもしろくないわな。それに『努力に即効性なし』だから、すぐに効果は表われない。

 

 あるとき、二軍監督に全員が手のひらを見せたんだけど、ほとんどが『なんだこの女みたいな手は』と怒られた。そのなかでワシだけが『お~いいマメ作っとるな。これぞプロの手だ』と褒められて、嬉しかったなあ。

 

 で、ようやく効果が出たのが1年めの秋季キャンプ。それまで飛ばなかったボールが、軽くオーバーフェンスするようになった。ワシ以上に驚き、注目してくれたのが当時の二軍監督。それからだよ。捕手としての基本技術を教えてくれたのは」

 

 2年めは一軍の出場はなかったものの、3年めのハワイキャンプには二軍捕手としてはただ一人抜擢された。当時、海外旅行すら珍しい時代で、先輩選手たちは練習もそこそこに、毎晩、夜の街に繰り出した。そんななかでも野村さんは毎日の素振りを欠かさなかった。

 

 帰国後、故・鶴岡一人監督に、「キャンプは観光気分の選手ばかりで大失敗だった。唯一、野村に使える目途が立ったことが収穫」と言わしめた。

 

 その後、開幕スタメンを勝ち取るも36打席ノーヒットなど、不名誉な記録を作る。だが、それでも素振りをやめなかった野村さんは、4年めには定位置を獲得し、30本塁打を記録した。

 

「いまの選手は素振りをしない。マシンでの打ち込みばかりやっとる。でも、なんでも段階があるんだよ。基礎、基本、応用の順。基礎、基本(素振り)を飛び越え、すぐに応用(マシン)に入るからだめなんだよ。22歳くらいまでは基礎を固めるべき。それから応用
にいっても遅くない」

 

 努力を積み重ねたからこそ、球界に名前を残す名選手、名監督になれたのだ。


東京五輪、新型肺炎と猛暑回避で「10月変更プラン」浮上中

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新国立競技場

 

 3月1日に開催される東京マラソン。ランナーは約3万8000人、沿道の応援は例年100万人以上という大イベントだ。もし、そこに新型コロナウイルスの感染者がいたら……。「医療ガバナンス研究所」理事長の上昌広氏に尋ねた。

 

「感染は拡大するでしょう。ただ、毎日の通勤通学ラッシュで、何千万人もが体を密着させて移動している。それと比較すれば、東京マラソンでの感染は誤差の範囲ですよ」

 

 東京マラソン財団は、「今後の自体の推移に応じ、対策を検討」と回答した。上氏は、日本国内での感染拡大に警鐘を鳴らす。

 

 

「中国人や中国からの帰国者と、接点を持たない感染者も発生している。すでに、日本も相当レベルに流行しています」

 

 大規模感染が起こっている中国では、3月に南京で開催予定だった「世界室内陸上選手権」が2021年に延期されるなど、スポーツイベントの中止、延期が相次いでいる。日本でもこのまま感染が拡大していけば、今夏の東京五輪の開催に影響が出る可能性も高い。

 

「五輪は延期したらいい」
 そう語るのは、スポーツ文化評論家の玉木正之氏(67)だ。

 

「『SARS(重症急性呼吸器症候群)』は、終息するのに8カ月。過去の例から考えると、新型コロナウイルスの感染がおさまるのは、8月くらいになるんです。『やっとピークが過ぎた』なんて時期に、五輪ができますか?  

 

 だったら、10月に開催延期したらいい。アメリカの放映権だなんだと言われていますが、これは不測の事態に対する安全対策です。商業主義のためだけに、反対なんてできないはず」

 

 玉木氏は、開催延期の思わぬメリットも挙げる。

 

「10月なら、猛暑を避けることもできる。マラソンも札幌から東京に戻すことできるかもしれない。組織委員会はIOCと協議するべき」

 

 猛暑と感染の二重苦になりかねない……。いまこそ、選手ファーストを。

 

(週刊FLASH 2020年2月25日号)

野村克也さんを支えた母への思い「マザコンなのかな(笑)」

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墓参する野村さん

 

 亡くなった野村克也さんは、子供のころ、貧しい生活を強いられた。そんな野村さんの野球人生を支えたのは、生活費を必死で稼ぐ母の献身だった。

 

 本誌は、そんな野村さんの墓参姿をキャッチしたことがある。

 

 

 野村さんは、2009年、出身地の京都府京丹後市から名誉市民に選ばれた。墓参は、同市でおこなわれた顕彰式典の前日のこと。野村さんは、墓前に20分以上たたずみ、両親との久々の再会を懐かしんでいた。

 

 式典のスピーチでは「久しぶりに帰ってまいりました。ふさわしくない表彰だと受け止めております。峰山高校を出て、早いもので54年が過ぎてしまいました……」と、最初は淡々と挨拶していたが、次第に涙声に変わっていく。

 

「微力ではありますが、間接的にしか京丹後市に恩返しすることしかできませんが、私で役立つことがありましたら、いつでもまいりますから、どうぞ私を使ってください」と、最後は感情の赴くままにむせび泣いた。

 

 涙の裏には、亡き母・ふみさんとの思い出があった。日中戦争で早くに父・要市さんを亡くした野村さんにとって、女手一つで育ててくれたふみさんはかけがえのない存在だった。その最愛の人との思い出が、故郷にはいっぱい詰まっていたのだ。

 

 式典後、会見に臨んだ野村さんは開口一番、「参った。皆さんには何の涙かわからなかったと思うけど、あれは母の涙。(式典前に)墓参りをしたのが悪かった。

 

 母がからんでくると弱いんですよ。子供のころからずっと苦労している姿ばっかり見てきたし、母の愛情しか知らないんだ。マザコンかな(笑)。本当に恥ずかしい姿を見せてしまった」と語っていた。

 

 野球人・野村克也の基礎を作り上げた京丹後市網野町。自身の思い入れも相当なものだが、1年に1回、墓参りに帰ってくる程度だった。

 

 会見を終えた野村さんに、本誌記者が「墓前にずいぶん長くいましたが?」と話を聞くと、「寒かったでしょ。見えない人(母)とずっとしゃべっていましたから……」とだけ答えて立ち去った。

 

 子供の頃、母の愛に支えられた野村さんは、母への恩返しの気持ちを、終生忘れることはなかった。

蝶野正洋「ビンタのイメージ」を売名に使って啓発活動を

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 プロレスラーの蝶野正洋が、2月11日に自叙伝『蝶野正洋 I am CHONO』の発売記念会見を開いた。

 

 プロレス界に身を置くようになって35年。「中学・高校と、荒れた時代があった。社会人としてちゃんとやっていく、プロレスで更生していくんだ、という意味合いで入った」と振り返る。

 

 

 近年は、防災・救命の啓発など活動の幅を広げており、2020年1 月にはユーチューブチャンネルも開設。

 

「先輩の長州(力)さんから、『ユーチューブを始めるならキャスティングしろ』と迷惑な横やりがありましたが、お断りします。(長州が始めた)ツイッターが話題になっているけど、ユーチューブもわかってないと思う」

 

『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!絶対に笑ってはいけない』(日本テレビ系)シリーズで、蝶野が山崎邦正にビンタをするイメージが広がっているが、「若い子らの間では、『ビンタの蝶野』のイメージなので、それを売名に使って(防災・救命の)啓発をしていきたい」と自虐ネタで苦笑いを浮かべていた。

 

「私の場合は制裁だから。悪いことをしたことに対し、邦正くんにしているだけ。邦正くんには毎年やっていて、毎年違う。本人もやってほしいと(思っているのでは)。暴力は嫌いだし、卑劣な行為」とも強調していた。

東京五輪ホッケー女子「永井葉月」シュートの音を聞きに来て!

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 アスリートには、スイッチが入る瞬間というときがある。ロッカールームを出るとき。戦闘服ともいうべきユニホームに着替えるとき――。永井葉月(25)にとっては、ヘアバンドをつけるときがその瞬間だ。

 

「何色かありますが、試合のときは白! アドレナリン全開で、熱が全身を駆けめぐるんです!」

 

 

 父は、女子日本代表の元監督で、現在は永井の所属先のソニーを率いる永井祐司監督。姉は同じく代表の、永井友理。リオ五輪後2年間、海外で武者修行した葉月は、司令塔として “さくらジャパン” を引っ張る。

 

「私の出したパスを、チームメイトが決めて勝つ。それが、姉の友理だったら、もう最高ですね。えっ、東京五輪の目標ですか!? もちろん、金メダルですよ!」

 

●永井葉月の “金言”
「最高の勝利は自分を乗り越えること」

 

●一問一答
――ご褒美メシは?
「うなぎも好きだし、焼き肉も大好きです。あとは……アイスクリームとケーキですね。ちょっと欲張りすぎかな(笑)」

 

――試合の見どころは?
「一番は、シュートを打ったときの音です。ぜひ、会場に足を運んで、聞いてください!」

 

――ホッケーと出合わなかったら?
「料理が好きなので、料理人? パティシエ?(笑)」

 

――好きなアーティストは?
「BrunoMars、BENI、Ms.OOJA」

ながいはづき
1994年8月15日生まれ 岐阜県出身 152cm52kg 2016年リオ五輪に出場。2019年の年間最優秀選手に選出された。「ソニーHC BRAVIA Ladies」に所属

 

写真・田中智久
取材&文・工藤 晋

 

(週刊FLASH 2020年2月25日号)

北島康介、過去の聖火リレーは大緊張「陸上には苦手意識が…」

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 競泳元メダリストの北島康介が、2月12日、コカ・コーラの「東京2020オリンピック聖火リレー PRイベント」に登場した。

 

 2000年のシドニー五輪を皮切りに、2012年のロンドンまで4大会連続で出場し、2004・2008年大会では100・200m平泳ぎで2種目2連覇を達成。

 

 

 現役時代、活躍すると「五輪で結果を残して喜んでもらえたのはよかった。自分が頑張るとみんながで喜んでくれたし、味わってくれるのかなと超気持ちよかった」と笑顔を見せる。

 

 北島は過去に2度、聖火ランナーを務めたが「決まったときはドキドキもそうだけど、緊張のほうが強かった。(競技をする舞台が)水の中だったので、陸上は苦手意識がある。そのドキドキは思い出す」と振り返る。

 

 東京五輪で聖火リレーを走るランナーに対しては、「沿道で応援する人、旗を振る人が心強く感じた。選ばれた人はぜひとも武器にして楽しんでもらいたい」と応援していた。

 

「聖火リレーまでもうすぐだと、実感が湧いてワクワクする」

 

 選手の活躍ぶりを見て、「超気持ちイイ」と言う日も来ることだろう。

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