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大坂なおみ「松阪牛800グラム」爆食も野菜はダメ…

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大坂なおみ「松阪牛800グラム」爆食も野菜はダメ…

 

「1997年の丑年生まれだから、肉ならなんでも大好き。でも、やっぱり牛がいちばん!」

 

 日本人選手として、初めてテニスのグランドスラムのひとつ、全米OPを制した大坂なおみ(20)。彼女は試合後のインタビューで、「いま食べたいのはカツカレー、カツ丼」と答えたものだから、大好物は豚肉だと思われていた。

 

 

 だが、親しい関係者に明かしたように、牛肉には目がないという。じつは2年ほど前、大坂は六本木の街で、ある “伝説” を作っていた。

 

「お父さまとおみえになったのですが、驚いたのは食べる量。生野菜はダメで、野菜は焼いたものを少々口にするだけ。お肉は、200グラム2万4000円のA5ランク松阪牛を800グラムも注文。

 

 さすがにすべては食べ切れませんでしたが、600グラムを完食し、あとはお土産に。男性のスポーツ選手でもここまで食べられる方は、めったにいません」(「ステーキハウス ハマ六本木」関係者)

 

 また寿司も大好物で、幼少期には60貫を平らげたこともある。パワーの源は、やはり食にあったのである。

 

 実力に加え、ウイットに富んだコメントも魅力。こうなると周囲が放っておくはずがない。米経済誌「フォーブス」は、将来性をこう試算する。 

 

「現在、アディダス、ヨネックス、シチズン、日清食品、WOWOWと契約しており、スポンサー契約料は150万ドル(約1億6600万円)ほどだが、これからは契約数も増え、単価も上がる。

 

 2、3年以内に1500万ドル(約16億6000万円)になるはずだ。彼女は、セリーナ・ウィリアムズの後継者として、世界でもっとも稼ぐ選手になるだろう」

 

 同誌によれば、2017年6月から2018年の6月まで、女子スポーツ選手の高額所得者は、テニス選手が1位から6位までを独占。そのトップがセリーナの約20億円だが、大坂のスポンサー契約料にグランドスラムの高額賞金が加われば「世界一の高額所得選手になる」とみているのだ。

 

 その数字が噓ではないことは、帰国後の慌ただしさに表われていた。

 

 9月13日の早朝、4時30分に帰国した大坂は、会見を挟み、午前11時には新たなスポンサーとの契約の場にいた。父のレオナルドさんが、昔から乗っていた縁もあってか、6社めとなるスポンサーは日本を代表する企業、日産自動車だった。そして、この場でも “なおみ節” が炸裂。

 

 かなりのクルマ好きと噂される大坂だが、好きな車種を聞かれると、待ってましたとばかりに「GT-R。速いから。白いのが欲しい」と即答。その場で、プレゼントされることが発表された。

 

 そしてもうひとつ。海外からビッグな知らせが。英紙「タイムズ」が、「女子アスリートとしては最高レベルの年間850万ドル(約9億5000万円)の契約をアディダスと更新する予定」と報じたのだ。

 

 世界一の “高給取り” にまっしぐらだ。

 

(週刊FLASH 2018年10月2日号)


仮想通貨からメガネまで「本田圭佑」関連ビジネスを一挙公開

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仮想通貨からメガネまで「本田圭佑」関連ビジネスを一挙公開

 

 東証一部上場の「TATERU」が、顧客の融資書類を改ざんし、アパートローンを組ませていたことが発覚した。「週刊新潮」9月13日号で、このことが報道されると、すぐさま「TATERU」は再発防止策を発表。だが、現在も同社の株価は乱高下を続けている。

 

 別の火種もくすぶっている。というのも、この企業はサッカー日本代表の本田圭佑(32)を公式スポンサーやCMに起用しており、本田も自身が運営するサッカークラブのスポンサーをお願いしているのだ。つまり、「TATERU」と本田は持ちつ持たれつのビジネスパートナーの関係といえるのだ。

 

【関連記事:本田圭佑 引退後はウガンダで「ドローン」ビジネスの青写真】

 

 欧州のサッカーリーグから離れ、選手としてのピークが過ぎたと思われる本田。彼のもう一つの顔がビジネスマンである。今回は、本田圭佑の「関連企業」を一挙紹介しよう。

 
 本田が、直接、経営に携わる企業は、以下の通りだ。

 
●HONDA ESTILO
 俳優のウィル・スミス(49)などのマネジメント事業や本田が運営するサッカースクール「ソルティーロサッカースクール」の運営事業などをおこなっている。

 

●KSK Group
 上記「HONDA ESTILO」などを保有する持ち株会社。社長は実父・司氏が務めるが、実質的なオーナーは本田自身。「KSK」は圭佑からとっている。

 

●SVホルン
 オーストリア2部リーグに所属するサッカークラブ。2015年に「HONDA ESTILO」が経営に参入。本田の従弟の洋史氏が第2会長を務めている。昨年、財政面に関する資料の不備と提出遅れに対し、リーグ機構から懲戒処分を受けた。

 

●Now Do
 パーソナルトレーニングサービスを提供する会社で、本田が代表取締役を務める。本田いわく、「ユーザー自身が指導者や施設を自分の都合で選ぶことの出来るプラットフォーム」を目指すという。

 

●KSK Angel Fund
 本田の個人投資ファンド。主な投資額は明らかにしていないが、ウィル・スミスも出資している米・飲料水ブランド「JUST WATER」など10社近くの企業に投資している。

 

●Dreamers Fund
 ウィル・スミスと本田が立ち上げたベンチャーファンド。主要投資家に野村ホールディングスを迎え、アメリカにて起業間もないベンチャーへの投資をおこなう予定。

 

●Yume Foundation
「KSK Group」の公式サイトで、「Keisuke Honda: 2016 World Youth Day」というタイトルのYouTube動画へのリンクが張られている。詳細は不明。

 

 以下は、本田のビジネスパートナー企業だ。

 

●ゼンマーケット
 海外のみに向けた通販サイト「ZEN MARCKET PLACE」にて、本田のオフィシャルストア「KSK. STORE」を展開中。本田以外にもGACKTなどが出店している。

 

●ビットポイントジャパン
 今年8月、仮想通貨交換所「BITPoint」のイメージキャラクターに本田を起用。PR動画も公開されており、それに対し「イメージムービーのテーマが『世界一を目指すために、日々挑戦、努力する』ということで、僕の考えと一致する部分があるなと思いながら撮影に臨みました」と本田もコメント。

 

●Bespo
 同社が運営する飲食店検索サービス「ビスポ!」に「KSK Angel Fund」が出資している。サービス発表時の記者会見では、本田も動画で「飲食店の抱える問題をテクノロジーで解決する、という思いとアイデアに感銘を受け、今回出資をさせていただいた」とメッセージを寄せた。

 

●ecbo
 同社が運営する荷物一時預かりサービス「ecbo cloak」に「KSK Angel Fund」が出資。「事業内容も先見の明があり、多くの人たちにとって感動してもらえるようなサービスになると確信しています」と本田もコメント。

 

●Aerial Lab Industries
 同社のドローン技術、開発中のホバーバイクの海外展開などの可能性に着目し、「KSK Angel Fund」が株式を取得。本田は同社の「Special Visionary KSK(特殊創造実行者)」に就任している。

 

●ライフイズテック
 中高生向けのプログラミング教育事業に取り組む。「KSK Angel Fund」の第1号投資だった。本田も今年5月に同社を訪れ「プログラミングやりたくなりますね!」とコメント。

 

●マクアケ
 クラウドファンディングサービスを運営する同社は、サイバーエージェントの関連会社。本田はサイバーエージェントの藤田晋社長に直談判して出資したという。直談判から数時間後にOKをもらい、「決断、早っ!」と本田は感じたそう。

 

●SAPジャパン
 同社の持つ最先端のアプリケーションなどを活用し、「ソルティーロサッカースクール」や「SVホルン」、本田本人を対象に運動データの分析、強化をおこなっている。

 

●HRBrain
 同社が運営する評価管理サービスに「KSK Angel Fund」が出資。同社訪問時に、本田は「僕は事業には投資しない。人に投資するんです」とコメント。

 

●オーマイグラス
 眼鏡通販サイトを運営する同社に「KSK Angel Fund」が出資。『サングラスで社会に貢献したい』という思いに、本田が強く共感したという。

 
 選手、ビジネスにとどまらず、本田は今年8月にカンボジア代表の実質的な監督に就任。9月10日におこなわれたマレーシアとの初陣では1対3で敗北した。

 

 また一つ新たなキャリアに進み始めた本田。さまざまなものに手を出しているが、どれもこれも結果が出ないということにならなければいいが……。

場所中も電話で相談を…「稀勢の里」頼りは「貴乃花」だけ

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場所中も電話で相談を…「稀勢の里」頼りは「貴乃花」だけ

■2018年九月場所

 

「正直、出場を明言したとき、協会は引退を覚悟していた。広報には、その準備をしておくようにという指示まで出ていた。今場所のノルマは勝ち越し。できれば二桁勝利というレベルだった。

 

 だが、勝ち越しを決めたし、鶴竜にも勝った。なかには栃ノ心、御嶽海を横綱相撲で破った一番もある。『これで引退はない』と、みんな胸を撫で下ろした。合格点だね、と(笑)」(協会関係者)

 

 

 8場所連続休場から復活を目指した稀勢の里(32)は、九月場所の十日目で勝ち越しを決め、最終的に10勝5敗とした。八角理事長も「横綱といえども、休場明けだから勝ち越しはホッとする。よく頑張っている」と、称えた。

 

 しかし、ある親方は「内容が悪すぎる」と指摘する。

 

「自分の形から攻めきることができないし、ドタバタ感が否めない。栃ノ心に勝った相撲を褒める人もいるが、じつは栃ノ心は古傷の右膝だけでなく、左膝も痛めている。抜けるような感じで、本来なら休場してもおかしくなかった。そんな状態の大関に勝っても褒められない。

 

 稀勢の里は、昨年三月場所の175キロから休場が始まった翌場所までに、体重が184キロに増量。今場所は、176キロまで減量しているが、体が締まったというより、筋肉が落ちてしまったという印象。胸の張りはないし、腹回りも弛んでいる。老けてしまったように見える」

 

■2017年三月場所

■2017年三月場所

 

 それでも稀勢の里は、綱の責任感から出場しつづけた。

 

「そんなとき、心の拠りどころとなっていたのが貴乃花親方だった」と担当記者は語る。 

 

「稀勢の里は師匠の田子ノ浦親方のことを信用しておらず、今場所中も電話で貴乃花親方にアドバイスを求めていた。2人は似た相撲人生を送ってきた。

 

 貴乃花親方は史上最年少の17歳8カ月、稀勢の里も2位の18歳3カ月で新入幕を果たし、ともに群れることを嫌い、横綱まで上りつめた。

 

 さらに長期休場からの復活。そしてなにより “ガチンコ相撲” を評価している。だからこそ貴乃花親方は以前からかわいがっていた。

 

 今場所、貴乃花親方は自分の部屋の力士についてより、稀勢の里へのコメントを多く求められていたが、嫌がるそぶりを見せずに応対。記者の間では、『事実上、師弟関係にある』という見方で一致している」

 

 一方、今場所は勝ち越しというノルマは達成したが、続く十一月場所を考えると、厳しい状況が見えてくる。

 

「横綱審議委員会のなかには、稀勢の里を支持する委員が大勢いるが、当然十一月場所での協会の見方は厳しくなる。二桁勝利は最低条件で、それ以下なら引退に追い込まれるだろう。また、たとえ二桁勝ったとしても、一月場所では、12勝から13勝、三月場所は優勝争いと、さらに厳しい条件が求められる」(協会幹部)

 

 相撲ファン待望の第72代横綱の完全復活は、まだまだ先のようだ。
(週刊FLASH 2018年10月9日号)

 

引退「貴乃花」相撲協会への反旗は2010年に始まった

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引退「貴乃花」相撲協会への反旗は2010年に始まった

 

 大相撲の貴乃花親方が、9月25日、日本相撲協会に引退届を提出後、都内で記者会見を開いた。

 

 引退の理由としてあげたのが、貴ノ岩への暴行に関する告発状を、事実無根だと認めるよう、相撲協会から圧力をかけられたこと。

 

 

「正式な通達や書類はございません。名前は控えさせていただきますが、役員のある方から、今場所に入り、告発状を事実無根だと認めろという話を直接、聞きました」

 

 この告発状は、元横綱・日馬富士が貴ノ岩におこなった暴行に対し、今年3月、内閣府公益認定等委員会に提出したもの。だが、弟子の貴公俊が付け人へ暴力をふるったことから、告発状は取り下げられた。

 

 もう一つの理由が、7月の理事会で、すべての年寄(親方)は5つある一門に所属しなければならないと決まったこと。

 

「いずれかの一門に入るための条件として、告発状の内容を事実無根と認めるよう要請を受け続けた」とし、事実を曲げるわけにはいかないと、引退を決めたという。

 

 現在、相撲の一門は「出羽海」「二所ノ関」「高砂」「時津風」「伊勢ヶ浜」の5つある。貴乃花親方は、6月、率いてきた貴乃花一門を離脱し、一門は消滅。

 

 旧貴乃花一門の阿武松親方など6人は二所ノ関一門に、立浪親方は出羽海一門に所属する。無所属だった錣山親方、立田川親方、湊親方の3人は二所ノ関一門に属する見込みだが、貴乃花親方の所属だけが未定だった。

 

 孤高の存在となった貴乃花の戦いは、2010年に始まった。

 

「2010年、相撲協会の『改革』を主張し、理事選に手をあげたのが貴乃花です。それまでは5つの一門ごとに候補が推薦され、10人の理事が無投票で決めることがほとんど。角界独特の談合でしたが、これに異を唱えたのが貴乃花親方だったのです」(スポーツ紙記者)

 

 貴乃花の立候補に対し、所属していた二所ノ関一門は反対を表明、出馬を断念するよう説得に動いた。だが、反発した貴乃花は一門を離脱、支援する6人の親方は破門となった。
 

 苦戦が予想された理事選だったが、立浪一門、二所ノ関一門からも造反者が出て、貴乃花は理事に当選。これ以降、理事選に注目が集まることになった。

 

 貴乃花が最後まで気にしていたのは、貴景勝、貴源治、貴公俊ら弟子たちの処遇だった。いずれも千賀ノ浦部屋への移籍が決まったが、稀代の横綱は、彼らに希望を託したまま、静かに相撲界から去ることになる。

大谷翔平「トミー・ジョン手術」最後まで抵抗するも受け入れ

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大谷翔平「トミー・ジョン手術」最後まで抵抗するも受け入れ

 

 エンゼルスの大谷翔平(24)が、10月第1週に右肘の靱帯再建手術(トミー・ジョン手術)を受けることを発表した。

 

 大谷は、日本時間9月6日にMRI検査で新たな損傷が見つかり、エンゼルスのチームドクターから手術をすすめられていた。しかし、手術は避けたいというのが大谷の本音だった。

 

 

「トミー・ジョン手術を受ける前に、(日本ハム時代のチームドクターである)同愛記念病院の土屋正光名誉院長の診断を受けたい」

 

 米経済誌「フォーブス」が報じた、大谷の「日本の医師にセカンドオピニオンを求めたい」という発言が、エンゼルス内で大きな物議を醸した。

 

「エンゼルスのチームドクターは、大谷が長く活躍するには、手術が最適との判断を下した。それでも大谷が日本の医師に頼るということになれば、エンゼルス側は『我々を信用しないのか』となる。これまでは相思相愛の関係だったが、この発言によって関係が崩れかねない」(現地記者)

 

 元メジャーリーガーのマック鈴木氏は、「大谷は順番を間違えた」と指摘する。

 

「セカンドオピニオンを希望することを、最初にエンゼルスに伝えていれば問題はなかった。チームドクターが判断しているのに、ほかのドクターに聞きたいとなれば、おもしろくない。それと、日本と米国の手術するレベル、意識の違いもあると思う。

 

 日本ではまず休ませる。それから判断するが、米国ではそうしない。ダメージが出ているので、これ以上よくなることはない。だったら、早めに手術しておこうというわけです」

 

 大谷といえば、これまでは優等生発言が目立ち、どちらかといえば自分の意見を強く押し出すことはなかった。その彼が、今回に限ってなぜセカンドオピニオンを求めるのか。そこには、「日本人投手とトミー・ジョン手術の相性の悪さが関係している」と、日ハム関係者は語る。

 

「これまでも多くの日本人投手が手術を受けているが、手術後に成績が上がったケースは少ない。3度も手術を受けた大塚晶文は、結局メジャー復帰ができなかった。松坂大輔と和田毅の2人は、全盛期とはほど遠いピッチングに終始している。ダルビッシュ有も球威は戻ったものの、今季は右肘炎症でクリーニング手術を余儀なくされている。

 

 一方で、手術をすすめられながら回避した田中将大は、今季で5年連続して12勝以上をマークするなど、いまやヤンキースのエースとなった。大谷本人も、『ダルビッシュさんや田中さんの例もあるし……』と近しい関係者に漏らすなど、手術をすすめる球団に疑心暗鬼になっていた。

 

 これまでも手術を受けた場合、成功する確率が70%、無理をすると再発する確率が30%というデータがある。そのデータを考えて、大谷はなかなか手術に踏み切れなかったのだろう」

 

 大谷がセカンドオピニオンを求めた同愛記念病院関係者が明かす。

 

「昨年、同病院でPRP注射の治療を受けたことは事実です。右肘内側に自分自身の血小板を注入して、悪化した箇所の修復、再生をおこなった。 その時点で、手術の必要はないとの判断が下されました」

 

 一度は手術が必要ではないと診断されていた大谷の肘。手術は吉と出るか、凶と出るか――。

 

(週刊FLASH 2018年10月9日号)

女子ゴルフ史上最短V「大里桃子」勝みなみ、新垣比菜に挑む

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女子ゴルフ史上最短V「大里桃子」勝みなみ、新垣比菜に挑む

小学生時代

 

「CATレディース」最終日(8月19日)、通算10アンダーで初優勝した大里桃子(20)。プロテスト合格から23日、3戦めという快挙だった。
 

 9月21日から始まったミヤギテレビ杯ダンロップ女子オープン最終日では、リランキングの2回目で13位だったが、27日から始まる日本女子オープンでは、どこまで健闘できるのか。

 

 

 大里は、勝みなみ(20)、新垣比菜(19)と同学年で「黄金世代」と呼ばれる。 

 

「高1でみなみが(プロツアー最年少)優勝したときは、私もその場にいて、すごく悔しかった。でも、強い同級生がいなかったらここまでできてはいないと思います」(大里)

 
 そんな彼女がゴルフを始めたのは、父・充さんの影響。母・美弥さんが述懐する。
  

「動きまわるのが好きで、好奇心旺盛な子供でした。本人が『やってみたい』と言ったものは、やらせるのが我が家の教育方針。
 8歳からゴルフを始めましたが、当時は父親とコースを回ったり、小さな大会に出てみようかという程度。
 ほかにもピアノ、水泳、クラブ活動でバスケや陸上をしたりと、ゴルフは習い事のひとつという感じでした。

 

 むしろ、小6のときに学童オリンピックというのがあって、走り高跳びで県で1位になりました。中学に入っても、ゴルフは平日に何回か練習して、週末にコースに出るという感じで、ほかのお子さんのほうが全然強かったですね」

 

 ゴルフに本腰を入れるようになったのは、中学2年生のことだった。 

 

「全国ジュニアで3位に入ったんですが、このとき『もう少し練習したら、もっとうまくなれるのかな』と思ったようです。また、小学校のころから知っていた勝さんや新垣さんの存在も大きかった。

 

 当時から2人は強く、高校に入学して代表チームに入っていましたが、桃子は入れなかった。

 

 いつかは追いつけという感じでやっていましたが、いちばん悔しかったのは本人でしょう。負けん気は強く、口には出しませんが、悔しそうだというのはわかっていましたから」

 

 現在は、夫婦揃って娘の応援に駆けつける。

 

「主人と娘はツアーでもよく喧嘩をしています(笑)。親子なので言いやすいし、主人も厳しい人なので強く言うみたいです。負けじと言い返すのもすごいんですが。それと主人が冗談で言っていますが、『プロゴルファーのお嫁さんになってほしい』と(笑)」

 

 だが、父の教えはしっかりと娘に届いていた。 

 

「父から『コースでは泣くな』と言われているようで、優勝時は笑顔だったが、会見では何度も目をウルウルさせていた。170センチと体格もよく、飛距離も出る。また、『まだまだ下手。下手は練習しないと直らない』と謙虚さもある。その気持ちがあれば、まだまだ伸びる」(ゴルフライター)

 

 日本女子オープンには、大里だけでなく、勝も新垣も出場する。アマ時代には敵わなかった2人との勝負に注目だ。

西武「山賊打線」を張る「山川穂高」僕は沖縄の星になる!

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写真・ジジ

写真・ジジ

 

「僕は沖縄の星になりたい。そのためには沖縄出身選手のイメージを大きく変えなければいけないと思っています」

 

 そう声高々に宣言するのは、西武 “山賊打線” の四番をシーズン当初から張る山川穂高内野手(26)である。

 

【関連記事:香川真司「戦力外」に250億円払ったアディダス怒る】

 

 沖縄県民の気質を表わす言葉のひとつに「なんくるないさ〜」がある。本来は「努力すれば、いつかきっと報われて、よい日がやってくる」という意味で、「なんとかなる」というニュアンスで使われることが多いが、これこそが「変えなければいけない」と言う。

 

「プロの世界で生きている以上、なんとかなるではいけない。こういう気質の選手が多いから、沖縄出身の選手は大成しないと言われてしまう。やっぱりこの世界では関西人が強い。がっつき度が違うんですね。

 

『なんくるないさ〜』ではなく、『なんくるならない』ということを僕は言いつづけています。沖縄出身でも本塁打王を獲ったり、プロで活躍しつづけたりできるんだ! ということを示したい。それを沖縄の子供たちが見てくれることがいちばんですね」

 

 山川は2016年に14本塁打を放ってきっかけを掴み、2017年は78試合出場ながら23本塁打と、一躍ブレイク。だが、2017年の契約更改では期待したほど年俸が上がらなかった。そこであらためて気づかされたのが、「1年通してやってナンボ」ということだった。

 

「プロは試合に出て結果を残すことが求められる。だからこそ出だしの3月、4月は気合を入れました。ダメなら即二軍ですから。そこで強烈な印象を残すつもりでやって、結果、月間MVPが獲れたと思っています」

 

 ここに至るまで、多くの人との出会い、助言が自分を大きく変えてくれたと断言する。

 

「いちばんお世話になったのが上本達之さん(現・西武ブルペン捕手)ですね。上本さんは試合後にもマシンで打ち込みを欠かさずやっていた。

 

 あるとき、『アグー(山川の愛称)、お前は練習しなくても打てるけど、もっと練習したらめちゃくちゃ打てるようになるぞ』と言ってくれた。

 

 この言葉が響き、早出特打ち、試合後のマシン打ちは日課となっています。僕は基本的に全打席本塁打狙い。プロはへんな話、失敗をたくさんできるんです。レギュラーを獲れば1打席めがダメでも次がある」

 

 山川は体重108キロの体格に似合わず、運動神経は抜群。大学時代は50メートル走で6秒2を出している。だが、プロ5年めで盗塁はいまだゼロだ。

 

「昔は自信があったんですけど……。似たような体型の中村剛也さんのほうが全然速い。走塁と守備に関しては無難がモットー。やっぱり、ひとつの塁を全力で進むより、4つの塁をゆっくり進んで帰ってくるのが仕事だと思っていますから(笑)」

 

やまかわほたか
1991年11月23日生まれ 沖縄県出身 176センチ108キロ 中部商から富士大(岩手)に進み、ドラフト2位で、2014年に西武入団。特技はピアノと、八段という書道

 

(週刊FLASH 2018年10月9日号)

西武優勝の立役者「山川穂高」愛妻と東京五輪を語る

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西武優勝の立役者「山川穂高」愛妻と東京五輪を語る

写真・ジジ

 

 西武優勝の立役者となった山川穂高内野手(26)を支えているのが、2017年に結婚した妻・麻衣子さん。彼女は富士大の1年先輩にあたり、大学時代はソフトボール部で活躍した。 

 

「内助の功? もちろんです。彼女がいなければ今の成績はありえません。僕は家では一歩も動かないので(笑)。また、食卓には多くのおかずを並べるなど工夫してくれています。腕前? 何を食べてもおいしいですよ。

 

 

 これ言うと驚かれるんですが、僕は家でも野球の話をめちゃくちゃする。『今日の試合の流れはこうで、投手はこう攻めてきた』とか。愚痴も言うし。奥さんは、『うん、うん、そうだねえ』と聞いてくれます。

 

 僕は結果が悪くても、テンションが低いままでは帰りません。自分で溜め込んでモヤモヤするより全部吐き出す。奥さんも野球を知っているんでね」

 

 本塁打は断トツの46本。
 当然、2年後の東京五輪での活躍も期待されているが、意外な答えが返ってきた。 

 

「代表のユニホームは着たくないです。たとえば五輪に出て僕のエラーで負けたら終わりですよ、人生。そんなところに、いま飛び込んでいく自信はない。

 

 もちろん、2年後に心の準備ができ、力がピークならお願いしたい気持ちはありますが。

 

 やはり代表は、長年活躍した選手が集まる場所。まだ1年しか結果を残していない僕が、いる場所ではないと思っています」

 

やまかわほたか 
1991年11月23日生まれ 沖縄県出身 176センチ108キロ 中部商から富士大(岩手)に進み、ドラフト2位で、2014年に西武入団。特技はピアノと、八段という書道

 

(週刊FLASH 2018年10月9日号)


大谷翔平「外野手転向」で観客動員数アップの皮算用

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写真・USA TODAY Sports/ロイター/AFLO

 

「ついに大谷も決心したというより、むしろ諦めがついたのだと思う。もはや治すには、手術以外にないのだと」(メジャー関係者)

 

 右肘靱帯損傷後は、DHに専念した大谷翔平(24)が、トミー・ジョン手術を受けることを決断。セカンドオピニオンを求めるなど、手術回避を模索していたが、結局は肘にメスを入れることを受け入れざるをえなかった。 

 

 

「(トミー・ジョン手術を受けることに)残念な気持ちはありますが、いろんなプランを提案してもらって、最終的には自分で決めました」

 

 会見で手術への思いを語った大谷だったが、前出のメジャー関係者が胸中を代弁する。 

 

「6月ごろから肘の状態はよくなかった。だが、休めば回復するのでは、と淡い期待を抱いていたのだろう。結果的に手術しなかったことで、さらに悪化させてしまった。二刀流に強い思い入れのある彼だけに、苦渋の決断だったと思う」

 

 大谷は「自分で決めた」と会見で強調していたが、現地記者は違った見解を示す。 

 

「エンゼルス側の強いすすめで手術に踏み切ったのが真相。大谷は投手として高評価を得て入団したが、その実力もさることながら、打者としての能力がずば抜けているとわかった。

 

 球団は、投手としてではなく、打者として長く活躍してほしいから、早く手術を受けてほしかった。DHなら、手術しても来年の開幕に間に合う可能性がある。また、二刀流ならば、出場できる試合数は限られるが、DHなら全試合出場が可能。

 

 今季は早々と、PS進出がなくなったこともあり、本拠地での観客動員数は伸び悩んでいる。そこで今後、大谷が打者に専念してくれれば、彼見たさに多くの観客が集まることが計算できる」

 

 また「打者専念ならば、外野へのコンバートも期待できる」と、長年、大谷を取材するスポーツライターは語る。

 

「エンゼルスの本音は、二刀流ではなく打者、それも外野手として期待している。

 

 今年、本来ならばDHはプーホルスが務めるはずだった。だが、大谷の入団で彼は一塁へ。もともと左膝の状態が心配されていたが、案の定、一塁での出場が多くなって手術を余儀なくされた。来年39歳になるが、年俸約30億円の契約が3年も残っている。年齢からくる衰えは顕著だが、元を取るためには出つづけてもらうしかない。

 

 大谷が外野を守れれば、常時2人の併用が可能。大谷は手術後はDHに専念、その後リハビリを経て外野というのがエンゼルスの皮算用。足は速いし、肘が治れば強肩は言わずもがな。イチロー張りのレーザービームも期待できる」  

 

 一方で、手術経験者のうち3割は失敗との報告もある。おもな原因は、心の焦りからくる過度な練習。人一倍練習熱心な大谷も、「二刀流」への執着心が仇となる恐れがある。

(週刊FLASH 2018年10月16・23日合併号)

大坂なおみ、原宿のスポーツショップで買い物満喫

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「いままでにないほど疲れた」   
 全米オープン優勝という快挙から2週間後、凱旋優勝を目指して臨んだ「東レ パンパシフィック オープン」は、惜しくも準優勝に終わった大坂なおみ(20)。

 

 

 試合後、冒頭のコメントを残し、次戦の欠場を発表した。顔には疲労の色が濃かった。

 

 しかし、そこはまだ20歳の若者、なおみちゃん。翌日の午前中、ホテルから出てきた彼女が向かったのは、「行きたい」と話していた原宿。

 

 カーリーヘアをなびかせて、関係者とともにスポーツショップなどで買い物を満喫していたが……途中、植え込みの縁石に30分近く座り込んでしまう。

 

 連日の激戦、相次ぐメディア対応で、公私ともに “ひと休み” なしでは、さすがの彼女も疲労には勝てなかった?
(週刊FLASH 2018年10月16・23日合併号)

元横綱「輪島大士さん」本誌創刊号でプロレスに意欲を

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「ハダカでコケた分は、ハダカで取り返す。まぁ、見ていてください」と、本誌創刊号(1986年11月19日号)で、全日本プロレスへの挑戦に意欲を燃やしていたのは、亡くなった輪島大士(本名・輪島博)さんだ。

 

 輪島さんのプロレスデビュー戦は、全盛期のアントニオ猪木も手こずった「インドの狂虎」タイガー・ジェット・シン。

 

 

 海外修行中に左手首を痛めた輪島さんは、必殺技「ゴールデン・アーム・ボンバー」を放てず、5分55秒、場外乱闘で引き分けとなった。

 

 輪島さんは、1948年1月11日、石川県七尾市で生まれた。日大時代に2年連続で学生横綱となり、花籠部屋に入門。1973年、横綱に昇進した。

 

 左下手投げなどが巧みで、「黄金の左」と呼ばれた取り口で14回の優勝を飾る。横綱時代は北の湖としのぎを削り、「輪湖(りんこ)時代」を築いた。

 

 1981年に引退し、花籠部屋を継承するも、1985年に年寄名跡を担保に借金したことで、日本相撲協会を離れることになる。

 

 その借金を返すために挑戦したのが、冒頭でふれたプロレスへの参戦だったのだ。デビュー戦は故郷・七尾市で行われたが、残念ながら初戦を飾ることはできなかった。

 

 当時、息子のプロレス・デビューを観戦した母の乙女さんは、「ゼロからやり直すというのは、地獄から這い上がるみたいに大変だったろうに……」と涙を流したという。

 

 輪島さんは、1988年にはプロレスも引退し、アメフト監督、タレントなどで活躍。

 

 2013年、咽頭ガンの手術を受け、発声が困難な状況になった。2015年に北の湖前理事長が死去した際は、文書で「俺はもう少し頑張る。よく頑張ったね、お疲れさまと言いたい」と弔いの言葉を贈っていた。

 

 大相撲のトップに上り詰め、その後、借金地獄から這い上がった輪島さんだが、ガンには勝てず、10月8日に死去した。70歳だった。

貴乃花親方「最近はめっきり酒量が増えて」と心配の声

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「苦渋の決断。無念さはあります」との言葉を残し、9月25日、角界を去ることを発表した貴乃花親方(46)。気になるのは今後だが……。
 貴乃花親方を長く取材する相撲担当記者が語る。 

 

「現役時代の収入は桁違いでしたが、2000年にIT株に大金をつぎ込んだ結果、数十億円ともいわれる借金を抱えたという報道がありました。

 

 

 引退時の断髪式の放映権、ご祝儀などで約5億円の収入があったが、借金をすべては返せなかったと。そこで太いタニマチの経営者を頼り、借金のほとんどを肩代わりしてもらったんです」

 

 2002年、都内に5億円ともいわれる豪邸を建設したことも重荷になったようだ。金銭面での苦労が続いた貴乃花親方は、2008年12月に中野新橋にあった部屋の土地、建物を売却。このときの買い手となったのが、前出のタニマチ経営者だ。

 

「彼は貴乃花親方の最大の支援者。購入した部屋を格安で貸して、部屋を存続させたことからも関係の深さが窺えます。だがその後、2人は決裂してしまった。部屋の移転を余儀なくされたのはこのためです」(同前)

 

 2016年、江東区東砂に部屋を移転。改装費などの資金が必要となったためか、登記簿によると、2015年9月に自宅を担保に銀行から2億円を借り入れているうえ、さらに1億8000万円の根抵当権も設定されている。

 

「新しい部屋は賃貸契約。かつての大横綱が、賃貸で部屋を持つなんて前代未聞だと、我々の間で話題になりました。じつは、貴乃花部屋では従来のタニマチ制度を廃止し、サポーター制度を導入したんです。これは景子夫人の発案だったが、うまくいかなかった。

 

 しかも、サポーター制度に反対していた太いタニマチが、どんどん離れていく悪循環に陥ってしまった。さらに、タニマチ経由で全国の有望な若手をスカウトすることが多いため、入門希望者も減ってしまった」(相撲ライター)

 

 また2018年、理事解任・降格で年収が約2000万円から約1200万円に激減したことも追い打ちをかけた。角界に残れば、少なくとも定年までは1200万円の年収が約束されていたのだが……。 

 

 貴乃花親方の酒量は増え、8月の東北巡業中に倒れた際は熱中症とされたが、その数日前には酔い潰れて、弟子に担がれてホテルに帰ったことがあった。

 

 ともに現役時代を過ごしたある親方は、「貴乃花は本当に友達が少ない。寂しいやつなんだよ。最近はめっきり酒量が増えちゃって」と、心配していたほどだ。

 

 本誌は、貴乃花親方の弁護士の所属事務所であるTMI総合法律事務所に、「株式投資に失敗して、多額の借金を抱えたことは事実か? その借金の返済をタニマチの経営者が肩代わりしたのは事実か? また、自宅を担保に銀行から2億円を借り、1億8000万円の根抵当を設定しているが、どのような目的で借りたお金なのか?」との質問事項を送った。

 

 代理人弁護士である石原修氏は、以下のように回答する。 

 

「株式投資に失敗して多額の借金を抱えた事実はいっさいなく、したがいまして、その借金の返済を経営者が肩代わりしていたという事実も、いっさいございません。また、銀行の件に関しましては、住宅ローンの借り換えです」

 

「平成の大横綱」と謳われながら、現役引退後わずか15年で角界を後にする貴乃花親方。「貴の乱」はこのまま終焉を迎えるのか。
(週刊FLASH 2018年10月16・23日合併号)

日大三高を破った無名校の監督、甲子園で本塁打宣言した伝説男

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甲子園の開会式(1999年)

 

 10月8日におこなわれた秋季高校野球東京都大会の1回戦で、春夏あわせて甲子園を3度制している強豪・日大三高を破ったのが目白研心高だ。野球部を指導するのは、鈴木淳史監督(36)。

 

 目白研心は、2009年に共学化されるまで、目白学園高という名の女子高だった。共学化と同時にできた野球部は、今年で創部10年め。まだまだ無名校だが、実は、鈴木監督はただものではない。

 

 

 甲子園大会で、とあるエピソードを残しているのだ。
 それは1999年夏の甲子園のこと。鈴木監督は2年生ながら新潟明訓の4番に座り、一回戦で愛媛の宇和島東と対戦した。予選の県大会では1本の本塁打も放てなかったにもかかわらず、試合前にこう宣言する。

 

「俺、ホームラン打つからな――」

 

 迎えた試合の第3打席、鈴木監督が放った打球は浜風に逆らいながら右翼ポール際へ飛び込んだ。それは大会の第1号本塁打となり、まさに勝利を決める一発だった。

 

 試合後のインタビューでは、宣言通りの本塁打について、正直に「狙ってました」と答えた。だが、そのことで周囲から「生意気だ」と言われたこともあったという。

 

 地元新聞の取材では、「自分が打つのが第一。死球を受けると、打たせろよって思った」と話すほどの自信家だったが、甲子園の2回戦で北海道の旭川実業高に敗れてから考え方が変わった。

 

 翌年、3年生で迎えた甲子園大会は、新潟県大会の決勝で敗れたが、主将として引っ張り、「人間的に成長した」と評された。大学卒業後から指導者を目指し、山梨県の日本航空高でも監督を務めた。

 

 甲子園での一発から約20年後。新潟明訓で培った「のびのび野球」の教え子たちが日大三を破った。試合後、目白研心の4番で満塁本塁打を放った山田瑞紀捕手(2年生)は、「世間は『絶対負ける』と思っているから、それを覆してやろうと練習してきました」と話した。

 

 監督から選手へと受け継がれた、約20年ぶりの「狙ってました」発言だった。

熱狂する「新日本プロレス」はこう読め、プチ鹿島が解説!

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猪木(1986年、東京体育館)

 

 新日本プロレス(通称・新日)の勢いが止まらない。低迷期といわれた10年前からV字回復を果たし、2018年は同社最高売り上げを20年ぶりに更新する見込みだ。その熱狂の要因とは?
 

「僕も含めて、昭和のプロレスファンはよく、“あのころの新日” といまの新日を比較して語りたがる。だけど、そう単純には比較できない。時代とともに、ファンがプロレスに求めるものは変わってきているんです」

 

 そう語るのは、芸能界でも指折りのプロレス愛好家・プチ鹿島氏だ。小学生でアントニオ猪木にハマり、現在に至るまで、新日本を中心にありとあらゆるプロレスを観続けてきた鹿島氏。

 

「昭和の時代のプロレスは、猪木さんやUWFの流れで、選手たちもファンも『最強は誰か』という “最強幻想” を旗印にしていた。でも、いまの新日を観てファンになった人は、最強を求める闘いも大事にするが、ほかにも大切なものがある。

 

 それは何かというと、『誰が最高か』『どの団体が最高か』を追い求める “最高” という新たな価値観のことです。この違いは大きいと思います」

 

 アントニオ猪木の全盛期が過ぎていた1980年代に新日本を観始めた鹿島氏。当時との大きな違いをもうひとつ挙げる。 

 

「あのころの猪木さんは、観客も相手も翻弄しつつ闘っていた。いい意味で “悪女” みたいな感じで、何度も『猪木もうダメだな』『こんなプロレス、もう観るか!』って思うんだけど、そうやって見放そうかな……ってときにすごい試合をしたりする。猪木プロレスは、裏切りの歴史なんです。 

 

 でも、まだ当時はゴールデンタイムで毎週放送だったから、裏切りやタメも有効だった。いまは消化不良が続けば客が離れていく。いまの時代に不穏さはいらないし、ファンも求めてないんですよ」

 

 加えて鹿島氏は、ファンの求める価値が最強から最高に変わったのは、「ドームプロレス」以降、複数のスターを育て上げて、対戦カードを充実させる必要があったからだと分析する。

 

「いまの新日は、選手同士の人間関係として大河ドラマ的なものは続いているけど、1話完結というか、とにかく会場に行けばバックグラウンドや知識がなくてもイベントとしておもしろい。昔は流れを知らないと追っていけなかったけど、いまは試合のレベルも高いし、会場に行けば絶対に楽しめるんです」

 

 いかに会場に人を呼ぶかを考えるこの戦略は、スポーツ界の潮流のひとつともいえる。

 

「だけど、野球やサッカーの場合は、贔屓のチームがボロ負けすると見せ場がない。プロレスの場合は贔屓の選手が負けたとしても、パッケージとしてはハズレがないんですよ。特にG1クライマックスとか。

 

 まして、昔と比べたら、いまははるかにエンタメの選択肢が増えた。そのなかで、絶対におもしろいという安心感を求めて、新たなファンがプロレスに流れてくる。“プ女子” と呼ばれる女性ファンが増えている背景には、そういう図式もあると思います」

 

飯伏幸太が新日本プロレスの魅力を語る「闘っていて楽しい」

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 新日本プロレス(通称・新日)の勢いが止まらない。低迷期といわれた10年前からV字回復を果たし、2018年は同社最高売り上げを20年ぶりに更新する見込みだ。

 

 会場には “プ女子” と呼ばれる女性ファンも詰めかけ、チケットは入手困難。リングでは新たなプロレスムーブメントが起きている。その熱狂の要因とは?

 

 

 2018年、新日本プロレス・夏の最強戦士決定戦「G1クライマックス」で棚橋弘至に敗れたものの、準優勝に輝いた飯伏幸太(36)。彼が初めて、新日本の存在にふれたのは小学校5年生のとき。

 

「僕は『ドラゴンボール』のアニメが観たかったんですけど、チャンネル権を持つ2歳上の兄が、借りてきた『新日本プロレス対WAR』のビデオを再生し始めて。

 

 それを観た僕は、子供心に『これぞリアルなドラゴンボールじゃないか!』と思っちゃったんですよね。

 

 そこからプロレスを観始めて、2カ月後には自分の中で『これが俺の仕事になるな』と確信しました」

 

 そんな飯伏は、初志貫徹でプロレスラーとなり、類い稀な身体能力とルックスで、女性人気も高い選手になった。DDTプロレスの所属選手として2009年に新日本初参戦。

 

 2013年からは業界初となるDDTと新日本の2団体所属を経て、現在は、「プロレスそのものの追究のために」フリーの立場で新日本に参戦中だ。

 

 いまの新日本のブレイクに繫がる変化を、飯伏は感じていた。

 

「僕がファンだったころと比べると、2010年、2011年ぐらいから、明らかに会場に女性と子供が増えてきているのがわかりました。いまは選手が入場する段階から、完全に会場の空気が出来上がっている。

 

 おかげで僕らもノっていけるし、試合でもすべてを出せる。あと新日本の選手は皆、闘っていて楽しいですね。やはり他団体の選手にはない厳しさや空気感を持っていますね」

 

 最後に、新日本で飯伏が目指す今後の目標を聞いた。

 

「個人的にはIWGPヘビー、インターコンチ(無差別級)、G1優勝。この3つですが、自分はプロレスを観たことのない層に向けてプロレスをやっているつもり。僕の試合を入口に、プロレスファンが増えてくれればいいなと。そこは今後も変わらないです」

 

いぶしこうた
1982年5月21日生まれ 鹿児島県出身 181センチ93キロ 一度は成田空港で働くも、幼少期からの夢を捨てきれず、2004年7月にDDT後楽園ホール大会でプロレスデビュー。超人的な身体能力を武器に、DDTではKO-D無差別級、新日本ではIWGPジュニアヘビー級などの王座を獲得。現在は「飯伏プロレス研究所」所属として活動

 

(週刊FLASH 2018年10月2日号)


山口鉄也「ずっと練習嫌い」が巨人の最出世投手になるまで

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 2008年から2016年までの、9年連続60登板のプロ野球記録。育成から這い上がり、巨人軍で「最も出世した投手」といわれた山口鉄也が、10月5日、引退発表した。

 

 育成ドラフト第1期生として、2006年に年俸240万円でプロ生活をスタート。2007年4月に支配下登録。2012年には、72試合に登板して防御率は驚異の0.84。47ホールドポイントで最優秀中継ぎ投手賞を獲得。8年目の2013年オフの契約更改では、ついに年俸3億2000万円にまで到達した。

 

 

 育成出身選手の3億円到達は史上初の快挙。1年目から133倍のアップ率は、オリックス時代のイチローを抜いてプロ野球史上最高となった。

 

 2012年、開幕24試合連続無失点のセ・リーグ記録(当時)に並んだ山口鉄也を、本誌はインタビューしている。当時、ことあるごとに「練習嫌いだった」と語っていた。

 

「中学のとき、変化球とか技術的なことも含め、野球を一から教わりました。そのころは練習が嫌いで、サボることばかり考えていましたね。あるとき先生に怒られ、外野に一人で呼ばれて、マンツーマンでノックを受けさせられ、野球の厳しさも教わりました。中学で菅沼務先生と出会わなければ、今の自分はないですね」(山口)

 

 横浜市立菅田中学校の恩師・菅沼務氏は「体が細く、連投ができなかったのですが、力は素晴らしかった。卒業前には神奈川の強豪校から何校も誘いがあった。おとなしくて、目立つのが苦手。野球じゃなくてもいい。スノボかスケボーの選手になると言って、バカかと怒鳴ったことも(笑)」と話していた。引退会見では「冬にスノーボードをやりたい」と話しており、当時から好きだったようだ。

 

 山口は小学生時代からの憧れだった地元の横浜商高(通称Y校)に進学。3年夏にはエースになり県ベスト8に進んだが、恩師の目には山口本来の力を出し切れていないように映った。まるで、野球への情熱が薄れていたように見えたという。

 

「高校でもやっぱり練習嫌いで、監督にもよく怒られていました。プロには行きたいと思っていただけで、本気で努力はしてなかったですね」(同)

 

 高卒ドラフトにかかるほどの評価はなかった。大学進学の話もあったが断り、野球から離れようとした。

 

「高3の夏が終わってから、野球にどんどん冷めていって。野球部特有の上下関係が苦手で、また大学で1年生からというのが嫌でした。そのときはプロに行きたいという気持ちも消えていました」(同)

 

 しかし、卒業前に「やっぱり野球がやりたい」という気持ちが芽生え、ちょうどスカウトに誘われたダイヤモンドバックスのテストを受ける。だが本人は半ば旅行気分で、受かるとは思っていなかった。

 

「メジャーやプロ野球を目指すというわけではなかったです。アメリカに行ったこともなかったし、とりあえず受けたら受かって、アメリカでプレーすることに。大変だったのは、コミュニケーションと移動、あと食事ですね。とくにバスで16時間の移動は、本当にしんどかった。みんなデカいからバスの中が窮屈で」(同)

 

 米ルーキーリーグで3年間プレーしていたころ、帰国するとバイト生活を送った。

 

「シーズン以外の半年は日本にいて、知り合いのコンビニで働いたり、友達が働いている建築関係の職場で、作業着で骨組みを運んだりしていました。ルーキーリーグは、みんな1、2年でクビになるか上のレベルに上がるか。でも僕は3年目もルーキーリーグのままで……。やっぱり、日本人とは体格が違って、肩や足やボールのスピードが飛び抜けている人が多かった。身体能力が敵わないなと思いました」(同)

 

 帰国後の2005年、横浜と楽天のテストを受けたが不合格となり、最後にダメもとで受けた巨人に合格。巨人初の育成ドラフト選手で入団した。当時2軍監督だった吉村禎章氏は「テストはブルペンだけでなく、選手を打席に立たせて見ましたが、堂々としていた。コーチと話し合って十分に可能性があると。性格はシャイで自分から前に出るタイプじゃなかったですが、日に日に成長しましたね」と話している。

 

 3年以内に支配下にならなければ自由契約という規定があるが、その認識は甘かったと山口は言う。

 

「一人だけ背番号3ケタだし、同期で入った投手のボールを見ても全然違いました。普通のドラフトで獲られる選手はこうなんだなと。契約金も高くて、羨ましかったです。でも支配下と同じ環境で(二軍の)試合にも出させてもらっていたので、自分もみんなと同じ練習をしていたんです。そしたら小谷コーチに『お前はほかと違うんだから最後まで残って練習しろ』と。その言葉に気づかされて、もっと練習して周りに追いつかなきゃな、と」(同)

 

 引退会見で「特に成長させてくれた方は?」と聞かれて、一番最初に名前を挙げたのが小谷正勝・元コーチだ。
 米国では1Aにすら昇格できず、挫折を味わった山口。

 

「まさかこんな野球人生を送れると思っていなかった」と会見で話したが、彼の人生には、挫折し、野球を嫌いになったとき、必ず叱咤激励してくれる人が側にいた。通算642試合に登板した「球界を代表する鉄腕」の本当の魅力は「人に愛される力」なのだろう。

女子バレーのヒロイン「黒後愛」16歳で初めて風邪をひく

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 9月29日から日本で開催されている、4年に一度のバレーボール世界一決定戦「世界バレー」。10月11日におこなわれた強豪・ブラジル戦は、瞬間最高視聴率23.9%をマーク。3次ラウンド進出も決まり、注目度が急上昇中である。

 

 日本の快進撃とともに大会を盛り上げているのが、チーム最年少の黒後愛(20)だ。

 

 

 一昨年、下北沢成徳高校を卒業し、Vリーグの強豪、東レ・アローズに入団した。高校時代は、2年連続全国大会でMVPに輝き、Vリーグの2017‐2018シーズンは最優秀新人賞を獲得。

 

 今年6月の国際大会「ネーションズ・リーグ」で全日本デビューを果たすなど、順調にバレー界のヒロインへの道を歩んでいる。

 

「高校時代から全日本入りしてもおかしくなった逸材です。全日本デビューとなったネーションズ・リーグでは、世界基準のブロック相手に思うようなプレーができなかった。

 

 でも、踏ん切りがついたのか、今大会では思い切ってプレーできています。彼女の強さは、攻撃もブロックも守備もサーブも、すべてに穴がないこと。

 

 特に、弾丸のようなスパイクなど攻撃にパワーがありますが、サーブレシーブは少し苦手。ですが、それもさらなる成長のための伸びしろですよ」(スポーツ紙記者)

 

 バレー以外でも、こんな規格外なエピソードもある。

 

 世界バレー前に放送された『ウソのようなバレーの世界 コレ全部実話っす!!』(TBS系)では、黒後の姉が「愛は16歳まで風邪を引いたことがなかった。初めての風邪で39度の発熱でも自宅トレーニング」という仰天エピソードを明かした。

 

 しかし、そのエピソードに対し、黒後は「風邪は気合い」と笑顔で答える天真爛漫ぶりだった。

 

「彼女は、チームにいると雰囲気がよくなる “愛されキャラ”。人見知りしないし、物怖じしない性格で、度胸も十分。

 

 高校時代は、チームが決めてほしいときに決める、精神的にも技術的にも実力的にも中心となる、絶対的なエースだった。いずれは全日本でもそういった形でリーダーになれる選手。

 

 黒後と2歳上の古賀(紗里奈)の活躍が、日本の今後の躍進に繋がっていくでしょう」(同前)

 

 コート内での弾けるような笑顔も印象的で、どこか、2017年3月に引退した「絶対的エース」木村沙織(32)を彷彿させる。東京五輪に向けて、新たなスター誕生である。

新日本プロレス「入場テーマこそ華」と実況アナが力説

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 新日本プロレスの勢いが止まらない。低迷期といわれた10年前からV字回復を果たし、2018年は同社最高売り上げを20年ぶりに更新する見込みだ。

 

 会場には “プ女子” と呼ばれる女性ファンも詰めかけ、チケットは入手困難。リングでは新たなプロレスムーブメントが起きている。熱狂の要因とは?

 

 

「新日の入場テーマの大きな特徴のひとつは、選手がドームの長い花道を歩くことを想定してつくられている点。これは、ドーム興行が多い新日ならではでしょう」

 

 そう語るのは、現在、『FIGHTING TV サムライ』(スカパー)で新日本の実況を担当する清野茂樹アナ。東京ドームを中心に大会場での興行が多い新日本は、他団体と比べて選手の入場パフォーマンスも派手だ。

 

 いまは、プロレス界に金の雨を降らせる “レインメーカー” ことオカダ・カズチカのパフォーマンスが代表的な存在。スモークとともに、入場ゲートから現われた彼が両手を広げると、会場に “レインメーカードル” が舞い散る光景は、もはやファンにはお馴染みだ。

 

「新日の選手は、曲に合わせて自分をどう見せるかを考えている人が多い。たとえば、1990年代の闘魂三銃士と全日本プロレスの四天王を比べてみると、四天王の入場って、三沢光晴も、川田利明も、ただ普通に歩いて入場してくるだけで皆、淡々としている。

 

 でも、新日は蝶野がハマーに乗って入場したり、武藤はムタになるときに曲を変えたり、衣装を変えたりと、見せ方が全然違う。このへんは、何かと見得を切る猪木と、寡黙な馬場のイズムの違いというか、社風ともいえるかも(笑)」

 

 さらに、新日本の入場テーマにはこんな傾向も。

 

「新日の選手は出世するにつれて、曲を変える傾向がある。武藤も複数回変えて、棚橋、中邑も若手時代とは違う。最近でも高橋ヒロムとか、みんな曲が変わっています。それと、新日はいまだに若手の海外武者修行という風習が残っていて、凱旋帰国を機に曲を変える。これも特徴です」

 

 前述のオカダの入場テーマも、凱旋時に変えたもの。

 

「オカダの入場テーマは、最近の新日のテーマ曲では秀逸。コインが散らばる音で始まるのもインパクトがあるし、メロディも力強い。“レインメーカー” のイメージにぴったりだし、これぞ新日本お得意の豪華な入場って感じですね」

 

きよのしげき 
45歳 兵庫県出身 1996年に広島エフエムに入社し、2005年に退社。フリーアナウンサーに転向し、2006年より『新日本プロレスワールド』でも実況を担当。著書に『1000のプロレスレコードを持つ男』(立東舎刊)など

 

(週刊FLASH 2018年10月2日号)

鈴木みのる「オカダ・カズチカが新日本プロレスを成功に導いた」

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 新日本プロレスの勢いが止まらない。低迷期といわれた10年前からV字回復を果たし、2018年は同社最高売り上げを20年ぶりに更新する見込みだ。

 

 会場には “プ女子” と呼ばれる女性ファンも詰めかけ、チケットは入手困難。リングでは新たなプロレスムーブメントが起きている。その熱狂の要因とは?

 

 

 50歳となったいまも、新日本のみならず、さまざまな団体のトップ戦線で闘い続ける鈴木みのる。2011年に本格的に新日本に参戦し、ヒール軍団「鈴木軍」を結成した彼は、当時こんなふうに見ていた。 

 

「試合はおもしろい、選手は粒が揃ってきてる。そうこうしてるうちに親会社(ブシロード)も新たに出てきた。大量に資金投入して宣伝活動もやってくれる。

 

 さあ、あと何が足りない? 俺はすぐわかったね。20代のスターだよ」

 

 そんなときに現われたのが、2012年に海外武者修行から帰国し、2012年2月に史上2番めの若さ(当時24)でIWGPヘビー級王座を奪取したオカダ・カズチカだ。

 

「いまの新日本はオカダの出現がすべて。世の中は、20代のスターが出てきたところしか動かせない。これは過去が証明している。

 

 俺らがパンクラスをつくったのが25歳、UWFも20代、初代タイガーも20代、闘魂三銃士も20代、みんな20代のスターなんだよ」

 

 鈴木にとって、新日本のリングに上がる魅力とは何か。

 

「レベルの高い選手が多い。たとえば、他団体でタイトルマッチを争う、この闘いが団体の最高峰だっていう選手が2人いるとする。これ、新日本に10人以上います、っていうレベルです。

 

 あと俺にとってみたらお客さんがいっぱい入るんで、いい稼ぎ場だよね(笑)。それがいちばんです」

 

 最後に第一線で活躍し続けるための秘訣を聞いた。 

 

「守らずに攻めるってことかな。俺の同年代はみんな元気ないし、男としての生存競争から、みんな脱落してる。勝手に脱落すればいい。いまもこれからも負けないよ、俺は」

 

すずきみのる 
1968年6月17日生まれ 神奈川県出身 178センチ102キロ 横浜高校ではレスリング部に所属し、1988年に新日本でデビュー。1993年に船木誠勝らとパンクラスを立ち上げた。2006年度プロレス大賞MVPを受賞。現在は原宿に自身がデザインしているアパレルショップ「パイルドライバー」も経営

 

(週刊FLASH 2018年10月2日号)

貴乃花が輪島さんから指南された「土俵入り」「嫁の条件」

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「輪島さんから、貴乃花への伝言を頼まれた。『将来のおかみさんになるわけだから、マネジメントのできる女性を娶るように』という内容でした」

 

 元貴乃花親方(花田光司氏・46)が幼少期に活躍した、わんぱく相撲の関係者はそう懐かしむ。

 

 1992年11月、人気急上昇の貴乃花(当時は貴花田)は、女優の宮沢りえとの婚約を発表した。だが、冒頭の輪島さんの伝言が光司氏に伝わったのは、婚約解消後だった。

 

「当時は、マスコミが大騒ぎしていたころで、なかなか貴乃花(光司氏)と連絡がつかなかった。輪島さんからのメッセージを伝えると、貴乃花は『わかっています。でもすみました』と答えました」(同前)

 

 10月8日、70歳で亡くなった元横綱の輪島大士さん。光司氏とは「輪島のおじちゃん」「光司」と呼び合う仲だった。

 

 平成の大横綱としてキャリアを歩んできた光司氏が活躍し始めたころ、すでに輪島さんは角界を離れていた。だが、小学生のころ、輪島さんから「雲竜型」の土俵入りの手ほどきを受けたことがあるという。相撲に詳しいジャーナリストは語る。

 

「輪島と貴乃花は両者とも腕が長い力士。相手はまわしが取りにくく、逆に腕が長いほうは相手の体を摑みやすい。2人とも相撲に有利な体型だったといえます」

 

 現役時代の豪遊や、親方時代の金銭トラブルで部屋を廃業せざるを得なかった輪島さん。

 

 角界を追われるように去った点も光司氏と同じだ。光司氏に取り沙汰されている政界入りの噂についても、「輪島さんにも、かつて政界入りの誘いがあったが、本人が断わった」(閣僚経験者)。大横綱2人には、共通点が少なくない。

 

 1996年に石川県でおこなわれた輪島さんの結婚を祝う会で、輪島さんは知人に「光司はちょっと変わってるんだよな」と漏らしたことがある。光司氏の第二の人生を、輪島さんが天から見守る。

 

(週刊FLASH 2018年10月30日号)

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